死をガン見せよ!

わたしは問いたい。あなたは聖書を一度でもいいからお読みになったことはありますか、と。聖書は不滅の大古典であります。なんなら洋の東西を問わず、とか誰もが認める、とかいう表現を前に冠してもいい。

しかしながら、インテリを自負している有識者のなかにすら聖書をまともに読んでいない方々は多くいます。とりわけ日本には、という少々意地悪な但し書きを付け加えたいくらいです。これは日本のインテリの知的な怠慢であると思います。知的にちっとも誠実な態度とは言えない。

たしかに聖書は決して簡単に読める書物ではありません。そうなんです。浅薄な書物ではないのです。そしてボリュームがある書物なのであります。あの分厚い旧約聖書を一瞥(いちべつ)しただけで読む気が失せるかもしれません。誰であれ、あの分厚さを見るだけで容易に気づくはずです。ふつうの本ではないことに。けれども、そういうことも読んでみなければ心から合点することはできません。われわれ日本人は識者も含めて、もう少し聖書を深く学ぶ必要があるのではないか。旧約聖書も新約聖書も。

どうせ、われわれ凡人は一度、読んでもよくわかりません。けれども、わからなければ、あの太宰治のように十回でも百回でもそれなりの歳月をかけて納得のいくまで繰り返し読めばいい。読書百遍というではありませんか。

だけれども聖書を読む人は少ないです。もう少し正確に申しますと、聖書を真剣に読む人がほとんどいない。なぜでしょう。思うに、わたしたちは生きることについては一生懸命に考えますが死については一向に一生懸命に考えようとしない。これが、ほとんどの人が聖書を読まない理由であります。左様に述べたことが今回の記事でお話ししたい内容の眼目であります。

もちろん、そうは言うものの生きることを軽視していいはずはありません。一生懸命に生きることは責められるべきことではない。むしろ真摯に生きている人は認められて然るべきだと思う。しかしながら、それもおのずから限度というものがあります。わたしは左様に申すことにためらいを感じません。われわれは死についてあまりにも考えることをしません。死ぬることは生きることと同じかそれ以上に重要なことではないでしょうか。

皆、死について考えることを先延ばしにしています。否、わたしに言わせれば吾人は死について考えることを放棄しているかに見えます。大部分の方が生きることばかりに目が向かってしまっている。そうではありませんか。これをいわゆる思考停止と表現しても決して辛口な評価とは言えませんでしょう。

そういう次第で聖書に関心を持たない。興味も向けない。一顧だにしません。それでいて流行(はやり)の本をおおいに尊重して読んだ後に人生について何か悟ったと思い込んでいるのが現代の人です。だから最近の人は、たいてい非常に浅薄で幼稚な人生観しか持っていません。

なぜ吾人は聖書を読まないのでしょうか。聖書をキリスト教の教典と考えて自分には関係がないと思ってしまうのです。ゆえに無視するのであります。それが宗教に対する自分の偏見だということに気づけない。皆、してやられています。死について考えることをしないで死と対峙したとき一体どうするつもりですか。

日本の風土では死を直視せずに、むしろ死を忌み嫌う風潮があります。われわれ日本人は死から目をそらして生きている、というのが現状ではありますまいか。死から目をそらさず、むしろ凝視してください。そうです、タイトルどおり吾人は死を「ガン見」するべきなのであります。

読者諸賢よ、死の準備はできていますか。吾人のうち誰か明日、交通事故に遭わないとも限らない。そうでしょう。誰も否定はできないはずです。余命宣告でもされていない限り、いつ死ぬか誰も正確には知らないのです。

生と死は地続きです。これは、あの有名なマンガ、『カイジ』の作者である福本伸行の某作品に記されていたモノローグです。子供が読むマンガにさえそう書いてあるのです。

人生という旅の最終目的地は何処ですか。この質問の答えをご自分で、よく考えられるといいと思います。考える価値がある人生のおおきな疑問だとわたしは思いますね。なんなら有史以来という言葉を付け加えてもいい。いにしえの賢人、たとえばソクラテスや孔子もあんなに考えあぐねている人生の根本問題であります。

そういう人たちが書き残したものがあります。それが古典です。大昔に起こったことは現代も変わらずに起こっています。日の下に新しいことは何ひとつない、という言い方もできるのです。そういうことに気付いている人が古典を読むのです。古典を読む価値はそこにあるのです。読者諸賢よ、古典を読みましょう。そして、どうせ古典を読むなら不滅の大古典である聖書を読みましょう。読んで得るところ大ですよ。

ここまで記してきたにもかかわらず以上の記事の内容を宗教的だから考えることをしない、というあなた。聖書を読んで死について考えることをしない、というあなた。では実際に死に直面したとき何があなたを助けてくれるのですか。金か、知識か、家族か、イデオロギーか、友人か、仕事か、道徳か。もう、あなたは答えられないではないですか。
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よく生きることとは

 生と死は決して別物でなく、同じベクトル上にあるものと考えます ヨシキ君の言われる「地続き」ですね

 ですからヨシキ君の嘆き、人が死について考えることをしないというのは、実は生についても一生懸命考えているとは言えないのかもしれません

 かく言う僕自身も自分が死ぬこと、ましてや自分の身近なひと、例えば両親、友人が明日亡くなることなど考えられません
 人は自分にとって不都合なことは思考停止に陥るのかもしれない

 だから今自分にできることを日々懸命にやるしかないと思っています
 よく生きることはよく死ぬことにつながると信じて
  

 最後のヨシキ君の問いかけ~「~何があなたを助けてくれるのですか~」 
 ひとは生きている間、いろいろなものを追い求め、それにしがみつき、またそれを手放そうとしない 死ぬときは何も持っていけないのに
  

メメントモリ

ご返事が遅くなり誠に申し訳ありません。言い訳はしません。書く気があれば時間を作って書くことができましたから。それでは気を取り直してハタボーさんの貴重なコメントに対するご返事を以下に記してゆきます。これに懲りずにまたコメントを頂ければ幸いです。虫が良い頼みかも知れませんね。たいへん恐れ入りますが、もうひとつのコメントに対してはまた日時を改めてご返事をいたします。

≪生と死は決して別物でなく、同じベクトル上にあるものと考えます ヨシキ君の言われる「地続き」ですね ≫ そうなんです。死はどこか彼方にあるのではなく吾人の足元にあるのであります。うかうかしている間に潮が満ちて胸まで浸かるというのが死ぬということではありますまいか。皆、生きることに忙しい。しかしながら人間は必ず死にます。そして忙しく働いて営々と築き上げてきた人脈や財産と訣別しなくてはならなくなる。

その辺の事情はわたしの筆による表現よりハタボーさんの表現の方が秀逸だと思いますから以下に引用させていただきました。
 
≪人は生きている間、いろいろなものを追い求め、それにしがみつき、またそれを手放そうとしない 死ぬときは何も持っていけないのに≫

そう、ハタボーさんが鋭く指摘されているとおりであります。死ぬときは生まれてきたときと同様に何も持ってゆけない。わたしの職場の話になりますが還暦を過ぎてもお金とこの世に執着している同僚がいます。

彼は大学を卒業して商社に入り定年まで勤めあげて退職金をもらい年金だけで暮らしてゆけるだけの経済力があります。それにもかかわらず、わたしの職場で働いています。この老人は自分のことしか考えていません。吝嗇でもあります。自分にお金があるからか貧乏人を蔑視しています。わたしは超世俗主義のこの薄汚い心根を持った男と関わりたくありません。

大学を卒業して会社を定年まで勤めあげていても物の道理を弁えていない人間はいるのであります。彼はハタボーさんのご指摘のとおり生きてきたように死ぬることでしょう。吾人は物質主義の世の中を少しでもよくしてゆこうではありませんか。立派に生き、立派に死んでゆきましょう。 

現在わたしの父は癌で闘病中ですが癌病棟で治療していたとき周りの患者を観察していたそうです。病棟に入っている人々は最期を見据えて、どういうことをしているか知っていますか。新聞や週刊誌を読んでいるのだそうです。わたしは、そういう人々をことさらに軽蔑しているのではないのです。しかしながら死と対峙したときに新聞や週刊誌を読むというのはあまりにもお粗末です。

それまで死について考えなかったからこんな悲惨な事態に陥っているのだと思うのです。したがって、元気なうちに死について備えておくべきではないでしょうか。メメントモリというラテン語がありますね。吾人は死を想わなくてはなりません。わたしの記事がハタボーさんをはじめとした読者諸賢に死について真摯に考えるきっかけになれば、この上なく嬉しいです。それでは、失礼いたします。
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プロフィール

ヨシ樹

Author:ヨシ樹
昭和に生まれ、平成を生きる日本男児。
東京の大学を卒業して故郷の愛知県に戻る。
肉体労働や家庭教師、塾講師を経て現在、名古屋市で暮らす。
家庭教師は週末に副業として続けている。
いわゆる「勝ち組」「負け組」という二元論的なステレオタイプを嫌う。
趣味はブログ執筆、読書、音楽鑑賞、六弦ベース演奏、バイク・ツーリング等々。
ちなみに大型自動二輪免許保有。かつてハーレーを所有。
夢はオートバイでの海外ツーリング。具体的にはユーラシア大陸をBMWで走破することなどを考えている。
日本経済の非道いデフレを憂いつつも名古屋市のリサイクル・ショップや古本屋によく出没する。
実はプロテスタント教会の牧師の息子であり、幼い頃から聖書と教会に親しむ。
読者からのコメントが大好物。

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