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言葉について

以下に述べる文章は僕が大学生の時に閑に任せて書いた文章です。短い文章ですが記念に当サイトにアップすることをお許しください。その当時は感熱紙に印字したので今、僕の手許にある古い原稿は文字が消えかかつてゐます。若き日の文章を保存する意味でも、このスペースを遣ふことに、ご理解していただければ幸ひです。仮名遣ひは現代仮名遣ひです。

通貨が、人の手から人の手にわたってめぐり、汚れていくのと同様に言葉にも人の手垢やら、脂やらが附けられていく。
この点で言葉は社会性を帯びている。その社会性を無視したいのではない。又、できるものでもない。
只一つのことが言いたいだけである。個人の心の鏡に映る言葉の姿は千差万別である、と。


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原書元年

読書大戦争

《五、六年前、政経(抜粋者注:早稲田大学政治経済学部を指す)の同級生が僕のアパートに来たことがある。 自慢じゃないが、我が家は六畳と三畳の二部屋とも本ばかり。それもほとんどが思想的な本が多い。初めての人は大てい、「すごい本だな」「よく勉強してるなー」と驚いてくれるが、その同級生は全く驚かない。大学時代は一緒に民族派の学生運動をやったこともある人間だが、卒業してからはアメリカの大学に留学などして、日本に帰ってからは、どういう訳か組合運動をしている。
 その彼が、我がアパートに来て、こう言ったのだ。
 「鈴木さん、ダメじゃないか。全然勉強してないじゃないか」
 エッと我が耳を疑った。続いて彼いわく、
 「原書が全然ないじゃないの。政治学の本を翻訳で読んでるようじゃダメだよ。大学じゃ、原書でみな読んでたんでしょうが!!」 これにはガーンと来た。
 「翻訳ばかり読んでて思想運動もないんじゃないの…」とバカにされた。》(鈴木邦男著『読書大戦争』・彩流社の62頁、63頁より抜粋)

僕の住まひにも原書はほとんどありません。ハンディ・タイプの英訳『聖書』があるくらゐです。けれども、聖書の原書は旧約聖書ならヘブル語で書かれてゐますし、新約聖書はギリシャ語です。今回の記事は趣向を変えて英文を載せようとしましたが、できなかつた。いはゆる、原書がなく、また英語の本もないに等しいからです。本書は十数年前に読んだのですが本書の教訓を実践してゐません。実に情けない、と云はざるを得ない。本年こそは原書をどんどん読む年にしたい、と強く思ひます。


200回達成!!

タイトルにあるやうに当ブログの記事が本日で二百本目です。記事のネタは自分で考へたものばかりです。ブログネタを使つた記事は一つもありませぬ。時事ネタでさへ、ほとんど書きませんでした。全部、自分のアイデアです。思ふに僕にしか書けない記事を書くからこそ執筆する意義があるのであつて借り物のネタに寄りかかつて書いた文章なぞ、面白くないし何の足しにもなりはしますまい。書く甲斐がありませぬ。たまに自分の愛読書から引用した文章を載せることもありますが、それですら普段から読書してゐなければ載せることはできません。楽をして記事を書かう、といふ姿勢では読者の心の琴線に触れ得る良い記事は書けない、といふのが、かねてからの僕の持論であります。

とはいへ、僕は、のた打ち回つて苦しみ、命を削つて書いてゐるわけではありません。むしろ逆に記事を書くのは日々の生活の中に占める愉しみですらあります。初めの頃と比較すると一つの記事に書く文の量が格段に増えてゐますが僕はそれでいい、と思つてゐます。ある程度の量がなければ云ひたいことが云へぬ、と考へるからです。思ふに、簡にして要を得た文章といふのは草すのがなかなか難しく、それなりの力量が必要とされます。僕には遺憾ながら、まだ、さういふ立派な文章は書けません。日々の記事を更新していく中で身に付けてゆきたいですね。

そもそも、なぜ、当ブログを立ち上げたのか、と申しますと一つには[mixi]の記事の影響があります。[mixi]の記事を見て、これなら書けると思つたのが当ブログを始める発端となりました。それまで僕は“「論」ブログヨシ樹”で2000字以上の長い記事を全部、書き下ろしてゐましたから大変でした。読む方としても読む際に負担に感じてゐたかもしれません。そこで、もう少し短く頻繁に更新できるブログを立ち上げたいと思つてゐた時分に友人のハタボーさんの[mixi]に招待されて当ブログを作らうと思ひ立つたのでした。

これからも良い記事を書くように努めますので当ブログ“ヨシ樹の雑記帳”を引き続きご贔屓にして応援して下さるなら幸甚です。


いまの食文化を憂ふ

最近、実家で食べる料理を改めて美味しいと感じられるようになりました。年老いた母が作る漬け物や味噌汁、ご飯がすこぶる旨い。まあ、僕の年齢であれば本来、母ではなく嫁に作つてもらはなければならないはずですが……。さはさりながら、和食といふものが、ことさら美味しく感じられるようになりました。敢へて名前を挙げますがマクドナルドとかケンタッキー・フライドチキン等々、洋風のしつこい分かりやすい味付けの食物を嬉々として食べてゐるやうでは日本人として生まれて来た甲斐がありませぬ。

前回、当ブログで藤沢周平の著した『たそがれ清兵衛』について記事を書きましたが藤沢は料理の描写が秀逸で、あたかも、そこで描かれてゐる料理を充分、味わひ堪能した気持になれる。そして、日毎の糧を愛おしむ感謝の念を醸成さしむる卓抜な表現力を持つた稀有な作家と評することができます。藤沢は知る人ぞ識る時代小説の名手ですから、もちろん、作品に出て来る料理は和食です。江戸時代にマクドナルドなぞありはしません。その描写の妙を読者諸賢と共有するべく以下に引用しませう。

《亀代が料理上手だからでもあるな、と万六は思っている。亀代は美人で気がつよく、舅を舅とも思わないところがあるが嫁だが、感心なことに台所仕事を厭わずまた上手でもあった。
 もっとも、料理上手といっても普請組勤めの四十五石の家である。毎日の食事にさほどの金をかけるわけでもないが、亀代はその限られた費えの中で、馳走をととのえるのが巧みな女だった。
 たとえば万六の朝の膳である。小茄子の塩漬けと少量の菊の花の酢の物、それに昨夜の塩鮭の残りと味噌汁といった中味だが、小茄子は俗に嫁に喰わすなという秋茄子、菊の酢の物とともに上等の味を持つ漬け物である。塩鮭は昨夜の残り物といっても、喰いかけのところは取り去ってこんがり焼き直してあるし、味噌汁は青菜に賽の目に切った豆腐というぐあいで、およそ手抜きということをしないのが亀代の料理だった。
 豆腐や魚も、並びの普請組の家々では、外から触れ売りで回って来る豆腐屋、魚屋で買い物を済ませ、死んだ万六の妻などもずっとそうしていたのに、亀代は織物の内職がいそがしいときはべつにして、ふだんは坂下の商人町まで出かけて豆腐だ、魚だと買いもとめて来るらしかった。亀代が台所をするようになってから、食事がひと味変わって来たように思うのはそのせいに違いなかった。》(『たそがれ清兵衛』収録の「ど忘れ万六」より引用)

どうです、少し長い引用ですが腹が減つて来ませんか。誠に美味い、いや巧い描写ではありませんか。僕も亀代のやうに気は強くなくていいから美人で料理上手の奥さんが欲しいですね。それと同時に自分でも料理を作つて、それこそ味のある毎日を過ごしたい、と思ふようになりました。思ふに、三度三度の食事といふのは吾人の幸不幸を左右するほどの重大事であつて決して些事ではありませぬ。僕はインスタント食品を憎みます。料理にかける手間隙を惜しんで効率を優先させる今の風潮を憂ふるものです。藤沢の作品は、かういふ大事なことを僕に教へてくれました。


『たそがれ清兵衛』

たそがれ清兵衛

今日は流行に良書の名を教へられる時代なのか僕は只今、藤沢周平の『たそがれ清兵衛』(新潮文庫)を愉しみながら読んでゐます。本書は、いづれも普段は侮られがちな侍たちの意外な活躍を描く短編、全八編を纏めたもので一つひとつの作品は短く、それでゐて情味あふれる読み易い本です。山田洋次監督が映画化してゐますから読者諸賢もタイトルくらゐはご存知でせう。テレビを見ない僕でも承知してゐたのですから。僕も映画の題名を知つてゐたから読んでみようと思ひ立つたのです。しかし、調べてみると、映画のストーリーは原作とは大きく異なるやうです。これが良いのか悪いのかは直に観てから評価を下さなければなりませんが国内外で高い評価を受けてゐるらしいです。機会があれば是非、観てみたいですね。

時代小説といふのは侮れませんね。大変、面白い。時代小説と云へば僕はこれまでに山本周五郎の著した『さぶ』、『赤ひげ診療譚』(いづれも新潮文庫)を読んで来ました。周五郎の作品は僕が云ふまでもなく見事な作品ですが藤沢もそれに優るとも劣らぬ良い著書だと思ひます。周五郎とは異なる味わひがあり大変、面白い。時代小説もこれからはどんどん開拓してゆきたいです。

僕は今回、初めて藤沢周平の小説を読みましたが噂どほりの見事な作品です。ブックオフで新品同然の本書を350円で購入しました。こんなことをしてゐるから古典的名著が読めなくなるのですが、あまり堅い本ばかり、といふのも時に辛くなります。読書は苦行ではありませんからね。

まだ、一冊を全部、読み了へてゐませんが藤沢といふ作家は女性の描き方が絶妙だと思ひました。これを理解してもらふには読んでもらふに如くはありませんが物語に占める女性がくどくなく、さりとて物足りなくもない。細密な心理描写の妙なぞがあるわけでもないのですがよく書けてゐると思ふ。至極、乱暴に云つてしまへば、女性が出しやばつてゐないのです。書物の世界も、日常生活も日を追ふごとにますます興味深く面白くなつて来る、そんな気持にさへさせてくれます。残りの短編も頁を惜しみながら大切に読んでゆきたい、と思ひます。


神の実在の論証

三谷隆正『幸福論』

デカルトの神の実在の論証なるものがある。それはその形式においてアンセルム以来のスコラ的、いわゆる本体論的証明の様式に依っているけれども、実質的には上記のような有限なる実在としての我の直覚から出発している。即ち我は我を直覚すると同時に、その存在が限られたる不完全者の存在であることを直観する。しかしこの直観は完全者の観念が既に我が衷に定立されているのでなければ生じ得ない。

我が衷に既に完全者の観念があればこそ、それに照らして我はわが不完全者なることを知るのである。しかるに我が衷に完全者の観念があるということは、又この観念を我が衷にあらしめたるその原因が実在するのでなければならぬ。その原因は完全者ens perfectissimum即ち神以外の者ではあり得ない。何故ならば原因は少なくも結果と同じだけの実質を内容として持つものでなければならぬ。故に神は実在しなければならぬ。


三谷隆正著『幸福論』(岩波文庫)109頁より引用・ただし引用者改行

kajagoogoo

kajagoogoo

ブリティッシュ・ロックの脈々たる歴史を受け継ぐ正統派のロック・バンド、それがカジャグーグーだと思ひます。ブリティッシュ・ロックは曲調は決して明るくないですが何かしら心の琴線に触れて来ますね。それは同じブリティッシュ・ロックのバンドであるカルチャークラブやスパンダーバレー等にも通底することだと思ふ。カジャグーグーは僕が中学生の頃に一番、影響を受けたバンドです。その中でも「Islands」は名アルバムだと思ひます。

当時はレコードで聴いてゐました。今の若い人には俄かには信じられないかもしれませんが僕らが中学生の頃はまだCDプレイヤーが出始めの頃でCDそのものが充分、流通してゐませんでした。僕たち中学生は小遣ひを貰ふとレンタル・レコード屋に行き自分がこれだと思ふアルバムを借りてカセット・テープにダビングして聴いたものです。CDに較べるとレコードは扱ひにくく神経を使ひました。

年末にアマゾンでカジャグーグーの「Islands」を購入しました。もちろん、CDです。二週間以上、経つてアメリカから今日、CDが届けられたのです。今、そのアルバムを聴きながらこの記事を書いてゐます。このアルバムに収められてゐる「On A Plane」といふ曲はその当時としては珍しいベース・ソロを聴くことができます。四弦ベースでこれだけ素晴らしいベース・ソロが弾けるのですから驚いてしまひます。

僕は中学生の当時、友人から安く譲つてもらつた「Islands」の楽譜をまだ大切に持つてゐます。残念ながらベースパートは載つてゐませんが、そんなものは僕が耳コピーすればいいだけの話です。今から色々と愉しみです。ちなみに、僕の記憶に間違ひがなければカジャグーグーのメンバーは全員、キリスト者です。Oh,yeah!


初雪

本年、初めての雪が降つてゐた日曜日の朝、僕は白いものがちらほら舞ふ中、オートバイのスロットルを軽く空けながら教会へ走らせてゐました。もちろん、礼拝に出席するためです。礼拝は雨天決行ですからね。雪は礼拝を捧げてゐる最中も降り止まず帰りはヘルメットのシールドに雪が付着して少々、危険でした。

降雪中、バイカーは特にブレーキングに神経を遣ひます。路面が濡れてゐるとブレーキをかけた途端、タイヤがロックして転倒する惧れがあるからです。オートバイは自動車と違つてタイヤが二つしかありませんから事はより深刻になります。オートバイでも自動車と同じやうに、いはゆるABSが標準装備されてゐるものもありますが僕のオートバイは残念ながらそんな高級バイクではありません。したがって、周囲の状況、なかんづく信号機の明滅状況には気を遣ひます。

まあ、しかし、愛知に降る雪や寒さなど高が知れてゐます。僕は雪国生まれなので雪国の冬の厳しさは少しは解るつもりです。身体が芯から冷えますからね。霜焼けも厄介です。僕は霜焼けでしよつちゆう泣かされました。雪掻きも手伝はされました。本当に冬は辛かつたですよ。愛知の冬など子供騙しのやうなものです。これくらゐで音を上げるやうでは雪国の人に笑はれてしまひます。

幼い頃、寒い朝になかなか蒲団から出ることができませんでしたが「雪が降つてゐるぞ」と親父から初雪の報せを聞くと現金なことに蒲団を払いのけ窓越しに音もなく降る外の美しい雪をじつと見てゐたものです。


『格安エアラインで世界一周』

格安エアラインで世界一周

年末から読み始めて、もうすぐ読み了へる本が上記の本です。著者は下川裕治といふ旅行作家で「アジア」と「旅」に関する著書が多数あるらしい。本書を読むと現代は、いはゆる「貧乏旅行」にも飛行機は欠かせぬ交通手段であることが判ります。文庫本の裏に書かれてゐる本書の紹介文を以下に引用しませう。

《「嘘じゃないのか」マウスを持つ手が停った。モニターに映った航空運賃はたったの800円。経営難に苦しむ大手航空会社を尻目に世界の空を席巻するLCC(ローコストキャリア)の評判は本当だった!フィリピンの風俗街を彷徨い、出稼ぎインド人と座席を並べながら、クラーク、シャルジャ、ロングビーチなど超マイナー空港を乗り継いで地球を一巡り。ネット時代に実現した初の試み。》

お金があれば快適な旅行は保証されます。けれども、世人は何とかしてお金を遣はずに目的地に着きたいのです。云ふまでもなく誰しも旅に費やせる資金には限りがあるからです。僕も昨年の年末に深夜バスで横浜まで行つて来ました。その際、バスの乗客を仔細に観察すると皆、若い。僕みたいな中年のおじさんは僕を除いて一人もゐませんでした。思ふにいい齢をしたおじさんはお金はあるが時間はないのでせう。その結果、新幹線や飛行機に乗るといふやうなことになるのではあるまいか。

本書に記されてゐる世界一周旅行も不便を我慢して費用を安く済まさうといふ姿勢です。そして、本書の読者はこれだけの金額で世界一周ができてしまふのか、と驚くはずです。具体的な金額は敢へて書きません。明らかにしないことにより読書を促すためです。

正月に家族と**ロイヤルホテルに行き温泉から出て、脱衣所で身体を乾かしながらパンツ一丁で本書を読んでゐました。僕は本を読んで止まらなくなるとクルマを運転してゐて赤信号で停まつてゐるその時間が惜しくてその僅かの時間も利用して読書をするくらゐです。まあ、ここまで行くと相当の変人ですかね。以上のやうな次第で本書を推薦します。読んでゐて愉しい本ですよ。


日々是勉強

内村鑑三全集

その昔、ベンリー**でアルバイトをしてゐた僅かの期間にそこの社長から挑まれるやうに全集は持つてゐるか、と訊ねられたことがあります。あそこの奥さんはどうも恐妻家らしいよ、などと平気で云ふ社長でした。この無教養の男にいちいち答へるのさへ煩はしく厭でありましたが正直に持つてゐると答へました。ここで僕は件の彼から全集を持つてゐるか否かが教養人であることの目印の一つであることを身をもつて識ることができたのです。

この齢になつて強く思ふのは、いはゆる古典的名著と云はれてゐる著書、なかんづくキリスト教関係の名著に全然、親しんでゐないといふことですね。いやしくも日本のキリスト者であるなら内村鑑三の全集は書棚に蔵して全てに目をとほすくらゐでないと恥ずかしいと僕は思ふのです。その点、自分の不明を深く反省しなければなりますまい。

正宗白鳥の『内村鑑三』といふ評伝によれば鑑三の講演は老いたる団十郎、菊五郎の所作以上に人を陶酔させる力があつたと云ひます。しかし、甚だ残念なことに内村の感想は文章で読むと千篇一律であると云ふ。内村鑑三の肉声がこの世にすでにない以上、僕らは彼が遺した文章を読む以外ないが実家にある『続一日一生』を読む限り世の凡百の著書を抜きん出てゐると云ひ得る。全集は全四十巻で値段は軽く十万を超へますが何とか揃へたいですね。そうして立派なキリスト者になれれば安い買ひ物ではないですか。

岩波文庫の『後世への最大遺物デンマルク国の話』などを読んで内村鑑三の思想を解つたつもりになつてゐるなら、とんでもない思ひ違ひと云はなければなりません。前出の本は鑑三の入門の入門と思つた方がいい。

少し本を読む人なら自分が如何に古典的名著に親しんでいないかといふことを痛感してゐるものだと思ひます。例へば読者諸賢は『聖書』を読んだことはありますか。ないでせう。これではいけませんね。かく申す僕も『聖書』ならいざ知らず洋の東西を問はずあまりにも名著と呼ばれてゐる古典を読んでゐません。思ふに一生を了へるまで日々是勉強ですね。


UPしました【「論」ブログ】

“「論」ブログヨシ樹”に記事をアップしました。ぜひご覧下さい。僕は本日、大事な用がありますので記事更新を広告して床に就きたいと思ひます。連休中のお読み物としてご活用ください。

10日迄にUP【「論」ブログ】

新年を迎へ早や五日が過ぎました。皆さん、どうお過ごしでせうか。年始に時間ができたので当ブログの兄弟ブログたる“「論」ブログヨシ樹”に本年初の記事を載せる予定でいます。ジャンルは<書評>です。記事はすでに殆ど書き上げて現在、推敲中です。どんな本を取り上げるかは敢えてここでは明かしません。どうぞお愉しみに。

何時もケータイでご覧いただいてゐる読者もたまにはパソコンで“「論」ブログヨシ樹”をご覧下されば幸ひです。ケータイで当ブログを愛読されてゐる読者の存在を僕は忘れてゐるわけではありません。ケータイから閲覧されてゐる読者もご意見ご要望があれば何なりとお申し付け下さい。変へられる所は変へてゆきたいと思つてゐます。当ブログや“「論」ブログヨシ樹”をより良いブログにするために皆さんのお力をお貸し下さい。宜しくお願ひ致します。


二百回記念間近

“「論」ブログヨシ樹”の記事は昨年いつぱいで48本になりました。一つの記事につき2000字以上を目指してゐますので記事の数が50本に届けば大雑把に云つて100000字以上、書いたことになります。一冊の本に記されてゐる文字数はおほよそ100000字らしいので本一冊分書いたことになります。思ふに一冊の本を上梓するといふのは非常に根気が要る大変な作業ですね。

もう一方のブログである当ブログ“ヨシ樹の雑記帳”はもうすぐ記事二百本に到達します。ついこの間、百回記念をお祝いしてもらつた記憶がありますが何と云つても時の経つのは早いですね。両方のブログ共、遅々とした歩みではありますが着実に前進してゐると思ひます。

ただし、まだまだ文章にしろ、その内容にしろ発展途上にあると考へてゐます。僕は信念のある美しい文章を書きたいと希つてゐますが、まだ遥かに道遠しと云つたところですね。まあ、記事は数値を達成するためにあるわけではありませんので、そんなことに頓着せずに書きたい物を書いてゆくだけですね。さもなくば数値はノルマに堕してしまふでせう。およそノルマが課せられた文章を書くことほど辛く無味乾燥なものはありません。読者にしろそんな記事は読みたくはありませんよね。その辺は心得てゐるつもりです。改めまして本年も宜しくお願ひ致します。


謹賀新年

親愛なる読者諸賢へ

旧年中のご愛読を誠に有り難うございます。

本年もご愛読のほど、宜しくお願ひ致します。

現在、筆者は風邪を引いてゐます。皆様におかれましても健康には充分、お気を付けてお過ごし下さい。

本日、届く年賀状が今から愉しみです。まあ、僕宛てに来る年賀状は普通の人より極少ないと思ひますが。といふことで年賀コメントも愉しみにしてゐます。

本年もお互いに良い年にしてゆきませう。否、本年こそは、かな(笑)。略儀ながら本記事を以つて新年のご挨拶に代へさせていただきます。

2011年元旦 管理人ヨシ樹


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プロフィール

ヨシ樹

Author:ヨシ樹
昭和に生まれ、平成を生きる日本男児。
東京の大学を卒業して故郷の愛知県に戻る。
肉体労働や家庭教師、塾講師を経て現在に至る。
現在、未曾有の大不況下で苦しい転職活動を余儀なくされている。
経済状況は極度の貧乏。某市内の賃貸マンションを棲家としている。
いわゆる「勝ち組」「負け組」という二元論的なステレオタイプが大嫌い。
趣味はブログ執筆、読書、六弦ベース、オートバイ等々。ちなみに大型自動二輪免許保有。かつてハーレーを所有。
夢はオートバイでの海外ツーリング。具体的にはユーラシア大陸をBMWで走破することなどを考えている。
日本経済の酷いデフレを憂いつつも某市のリサイクル・ショップや古本屋によく出没する。
実は牧師の息子であり、幼い頃から聖書と教会に親しむ。

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