フィジカルな反応を求む

世の常識に疑問を呈し、常識に反する意見を述べると必ず反撥されます。一方、世に迎合した、あたりさわりのない無難な意見を述べれば誰も反撥しません。けれども、誰もが納得する一般論を記して何か意味はあるのでせうか。君にしか云へない考へを述べないで書く甲斐はあるのでせうか。

さういふ風に考へると、良い意味にしろ悪い意味にしろ、読者の反応が具体的なものであればある程、表現してゐる者は嬉しいのです。たとへば、mintさんが実際に正字・正仮名遣ひでコメントを下さつたことに僕は本当に感動しました。とても嬉しかつたですね。僕の記事を読んで実際に具体的な行動を起こしてくれたわけですから。

作家の村上春樹はその著書『約束された場所で』(文藝春秋社)にかう記してゐます。

《僕がこの『アンダーグラウンド』を書いていちばんよかったと思っているのは、多くの読者から純粋に物理的な反応が返ってきたことです。たとえば読んでいておいおい泣いたとか、あるいは腹が立って腹が立って身体がおかしくなったとか、怖くてしばらくのあいだ地下鉄に乗れなかっただとか。(中略)頭で考えた結論とか教訓なんかよりは、こういうフィジカルな反応のほうがはるかに有効だという気がします。》

僕も読者に抽象的な観念の衝撃ではなく具体的な身体の衝撃を与へることを願つてゐます。したがつて、かうも云へる。感情的なコメントを歓迎します。感情的であればあるほど歓迎します、と。


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リリーディング

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もう何度、この本を読んだことでせう。本の名は『無常という事』で、著者は小林秀雄です。高校生の頃、父から譲つてもらつた文庫本ですが今は、ぼろぼろでカバーは破けて使ひ物になりません。中も相当、焼けがあります。全体が一様に黄ばんでゐます。もう買ひ換へなければなりませんが全集も持つてゐるので今は我慢してゐます。本書に収録されてゐる<西行>を読み返したいのです。

最近読んだ辻邦生の『西行花伝』(新潮文庫)に触発されて僕の青春時代の読書の原体験を改めて確認したいと思つたのでした。僕が白皙の美少年だつた頃(嘘)、読んだ本で忘れられないもう一つの本は三木清の著した『人生論ノート』です。本書に収録されてゐる文章は中学の国語の教科書にも載つてゐました。誠に名著ですね。

名著である本書を何度、買ひ換へたことでせう。実は今月も新品同然の本書を廉く購入しました。思ふに哲学入門として最適な本です。薄つぺらな本ですが内容は充実してゐます。内容まで薄つぺらといふことはありません。読者諸賢も僕の本記事を読んだのをきつかけに一度、お読みになるといいと思います。とても深い思索に読む者は屹度、魅了されるに違ひありません。

かう述べて来て小林の件の本はなぜか買ひ換えてゐなかつたことに気付きました。我ながら不思議です。たしかに小林秀雄の全集があるから、わざわざ買ひ換える必要はなかつたかもしれませんが僕は三木清の全集も持つてゐるのです。実に不思議な思ひがします。


就職と自己実現

「就職するか否かは重要ではない、大切なのはなりたい自分に近づくことです。じっくり考えてほしい」とあるブログに記されてゐましたが本当にさうでせうか。

世間には生計を立てるために意に染まぬ仕事に従事することを余儀なくされてゐる人たちが無数にいます。このブロガーはそんなことも知らないのでせうか。

まづ、僕たちは生きてゆかなくてはならない。生活するためには僕のやうに真夏の炎天下でも汗水を垂らしながら辛い外での仕事をやらなくてはならない時もあるのです。生活ができてはじめて、なりたい自分になれるか否かといふ境地を目指すことができるのです。こんなことは常識ではありませんか。

そもそも、なにゆゑ、この人は就職問題といはゆる自己実現を別々に切り離して考へるのだらうか。なりたい自分に近づける就職をすれば、それが一番いいではありませんか。

違ふ、後輩が目指す職業に就けなかつたから冒頭にあるやうなアドヴァイスをしたのだ、と怒られさうですが反論になつてゐません。一度や二度の失敗で簡単に諦めるな、と叱咤激励するのが人生の先輩としての務めでせう。

齢若い後輩になぜ、こんなまことしやかな出鱈目をアドヴァイスするのでせうか。このブロガーこそじつくり考へてほしひと思ひます。こんな非常識かつ無責任なアドヴァイスをなぜ躊躇ふこともなく云へるのか理解に苦しみます。


レーザー・プリンターくん

僕は現在、レーザー・プリンターを所有してゐます。インク・ジェット式のプリンターはカラー印刷で見た目は美しいのですがインクが乾くのが遅く、インク・リボンを交換するのが手間で煩はしいからレーザー・プリンターを重宝してゐます。

以前、勤めてゐた個人塾の塾長のご厚意により無償で譲り受けたものです。もう何年も使つてゐますが、すこぶる便利です。云ふまでもなくレーザー・プリンターはモノクロ印刷ですが乾くのを待つ必要はありません。単色といふのも考へやうによつては潔いとも云へる。

最近、プリント・アウトしたものの字がかすれてきたので先般、トナー・カートリッジを交換しました。交換したトナー・カートリッジはリサイクル品で廉価なものでしたので助かりました。思ふに純製品は高過ぎますね。

いまはカラーのレーザー・プリンターもあるやうです。ゆくゆくはカラーのそれを購入したい、と思ひますが、とても今の経済状態では無理ですね。

レーザー・プリンターを個人で使つてゐる人は極僅かで主に法人で使はれてゐるやうです。いはゆる会社ですね。僕も個人的に非常に気に入つています。


愛といふ方法

愛は、他のいかなるものにもまして、人を賢明にする。ただ愛のみがよく、人びとの本質と事物の実相とについての洞察を、また人びとを助けるための最も正しい道と手段とについての本当の透徹した洞察力を与えてくれる。

だからわれわれは、あの事この事について、なにが最も賢い処置であるかを問うかわりに、なにが最も愛の深い仕方であるかを問う方が、たいていの場合、たしかに良策である。

というのは、後者の方が前者よりもはるかに分り易いからである。なにが愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしないかぎり、そうたやすく錯覚に陥ることはない。

ところが、最も才能豊かな人でも、ただ賢さだけでは、将来のあらゆる出来事を正しく予見し、判断することはできない。


ヒルティ著『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫)五月二十三日より全文引用

GTH(Great Teacher Hatabo)

もう、巷にはクリスマス・ソングが流れてゐますね。陳腐な云ひ方になりますが時の経つのは早いですね。あつと云ふ間です。事程左様に僕らすぐにあの世行きですよ。厭なことを云ふなあ、なんて思はないでくださいね。僕たちは死を意識しなければならないと思ひます。人生は短い、と哲学者セネカも云つてゐます。

昨晩、当ブログの兄弟ブログである<「論」ブログヨシ樹>の記事を更新しました。気付きましたか。タイトルは「私が正仮名遣ひを尊重する理由」です。当ブログで「弁明」といふ題名で(壱)から(四)までシリーズで、いはゆる正字と正仮名遣ひについて論じたことを賢明な読者諸兄は覚えてをられるでせう。それを纏めたものを<「論」ブログヨシ樹>にて正仮名遣ひを用いて一纏まりの記事として載せました。是非、ご覧ください。

今日は疲れてゐますので記事更新のお報せを書いてペンを擱きたいと思ひます。ご諒解いただければ幸いです。僕ももう齢かな(笑)。

さうさう、クイズの第二弾の正解者の発表です。全問正解者はハタボーさんでした。さすがハタボーさん、素晴らしい教養ですね。記事タイトルにあるとほりGTHの称号を差し上げます(笑)。またいつか思ひ付いたやうにクイズの第三弾を出題したいと思ひます。乞うご期待。


努力するのは当たり前

いま辻邦生の『西行花伝』(新潮文庫)を読んでゐます。すでに半分以上、読みました。云ふまでもなく西行は不世出の天才歌人です。歌を詠む人はせめて西行の『山家集』には目をとほすべきでせう。歌集や歌論など読むことなく呑気な歌を詠んでゐる人がゐますね。けれども、勉強しなくては、訓練しなくては良い歌は到底詠めない、と識るべきです。これはどんな世界でも当たり前の真実です。

僕は歌は詠みませんが自分の文章は歌のつもりで書いてゐます。歌と論文は全然、違ひません。僕も良い文章を書かうと『文章読本』の類は谷崎潤一郎から丸谷才一に至るまで、おほよそ全ての本に目をとほしてゐます。そればかりでなく毎朝、文語訳の聖書も読んでゐます。閑さへあればブックオフに通い良書を廉く手に入れ読書してゐます。さういふ努力もしないで良い文章を書かうなどといふのは虫がよすぎます。何も僕の文章が良い文章だ、などと云ふのではありません。その点、誤解のないやうに願ひます。

かつて僕の文章を美文だね、と皮肉を云つた人がゐますが文章を美しく書くか否か、といふのはもう、それだけで底知れぬ大問題です。僕に皮肉を云つた人は文章の形はいいが内容は空疎である、とでも云ひたかつたやうですが文章とは何かといふことがまるで解つてゐないことを、はからずも露呈したに過ぎない。

散文を巧く書けないやうな人が和歌なら散文よりは簡単だらう、センスの問題だからな、と思ふなら大間違ひだ、と云はなければならない。アスリートが己の体を厳しく鍛えるやうに表現者も言葉を磨かなくてはなりません。精神を禁欲的に鍛錬しなければならぬ。こんな当たり前のことをしない怠惰な表現者を僕は如何なる意味でも認めません。


弁明(四)

までは正仮名遣ひに焦点を絞つて論じて来ましたが今回は正字に照明を当てて述べたい、と思ひます。正字といふのは現在ではほとんど使はれてゐません。正字とは、いはゆる旧字体のことを云ひます。さう云はれて、ああ、あの難しさうな画数の多い漢字のことか、と気付く人もゐるかもしれませんね。

僕は正字をうつとりするほど美しい字体だ、と思ふ。正字を弁護する理由はまづ、かういふ審美的判断があります。美しいか、さうでないか、といふ判断ですね。そして、さは然りながら正字といふのは実は非常に合理的に出来てゐる字体なのです。

例へば、「貝」といふ字がお金に関連した字といふことが解れば、貪、貸、貶、賄、賠などの字が芋蔓式に憶へられます。どの字にも、ちやんと「貝」が使はれてゐるので理解した上で記憶できるからです。以上に挙げた漢字は皆、お金に関係がある、といふ一貫した論理が存在するので頭によく入るのですね。

かういふ風に正字は実に合理的に出来てゐます。ところが僕らが習つた、いはゆる新字は正字にある合理性や論理性が欠けてゐるのです。

例証しませう。例へば、新字に「売」といふ漢字がある。読者諸賢に問ひますが、この漢字に「貝」は含まれてゐますか。さう、ないのです。しかし、「売」は紛れもなくお金と関係があります。「売」といふのは経済活動に大きな位置を占める商行為の一つです。云うまでもない事実ですね。さうでありながら「貝」が欠落してゐるのです。では、正字ではどうか、と云ふとちやんと含まれてゐます。「売」を正字にすると「賣」です。パソコンだと見難いですが「貝」が含まれてゐます。納得できる関連性があるのです。僕が正字は合理的に出来てゐる、と主張する所以です。

「正仮名・正字」を使ふ僕たちのやうな人間を「知的スノッブ」と断ずるのは間違つてゐます。さうぢやない。僕らは「正仮名・正字」の美点を捨て置くのはあまりに残念である、と信ずるがゆゑに使用してゐるに過ぎない。「知的スノッブ」といふ評価は見当外れの独断に過ぎません。以上が僕が「正仮名・正字」を弁護する理由です。弁明はこれまでとします。


弁明(参)

正仮名遣ひは書き言葉と話言葉を画然とわける働きがある、と思ひます。正仮名遣ひで書かれてゐる文章を読むと一種の心地よい抵抗があるやうに思はれます。それは慣れるほどに、なくてはならない容易に平伏させることのできる愉しみになります。あたかも新雪を踏みしだく快感に似てゐます。

そもそも書いてある言葉と話す言葉を完全に一致させることは無理な話です。例へば、甲高い声と低く呟く声でそれぞれ同じ言葉を発音したとして、それを書き表せば両者は視覚的に同じ言葉として読者の眼に映ずるでせう。聴覚と視覚は当然、役割が違ふので両者は完全に一致しないのです。

なるほど、上記のやうな場合、甲高く云つた、あるひは低く呟いた、と表現すればいい、と云はれるかもしれませんが、それは少々的外れな見方と云はなければなりません。僕が云ふのは純論理として云ふのであります。話言葉をそつくりそのまま書き言葉として写生するのはどだい無理である、といふことを云ひたいのです。

そして、正仮名遣ひ、あるひは正字を使うやうに奨める論拠として一番の要諦は過去の永いあひだ人々が正仮名遣ひと正字を実際に使つて来た、といふ動かしやうのない事実です。それで間に合つてゐた。何か都合が悪い、といふのではなかつたのです。

では、なぜ国語改革を強引に進める必要があつたのか、と読者は訝しく思はれるでせう。さう、する理由はなかつたのです。あへて云へば、いにしへ人の使ふ仮名遣ひや漢字は未熟であり不便である、したがつて、この戦争に負けたのを契機に思ひ切つて改めるべし、と云ふ理由にもならぬ理由でせうか。かういふ現代の色眼鏡で昔を見る態度が事を誤らせた、と云へるかもしれません。弁明(四)では正字を推薦する理由に触れたい、と思ひます。


弁明(弐)

ご承知のとほり旧仮名遣ひは過去のものですから換言すれば歴史的仮名遣ひとも云ひます。そして本来の仮名遣ひであるべきだ、と信ずる人は正仮名遣ひ、と云つてゐます。では、ほんたうに正仮名遣ひと云ひ得るのか、そして正仮名遣ひはスノビッシュなものであるのか、をここで検討してみたい、と思ひます。

まづ、僕は元来、言葉といふものは歴史そのものだ、と考へます。僕たちの先達が永いあひだ使つて来た伝統のあるものです。したがつて、かう云ひ換えてもよい。言葉とは伝統である、と。さらに云へば言葉を扱ふには、いはゆる<古典主義的態度>を尊重するより仕方がないのであります。言葉とは歴史そのものなのですから。

それなのに終戦直後のどさくさに紛れた国語改革により日本に古来よりある伝統が蔑(ないがし)ろにされた。いや、これは至極、控えめな云い方でせう。めちやくちやにされたのです。その結果が今日の無残な結果をもたらしている、と僕は信ずる。

さう信じて僕は「古典主義」が欠如したいまの日本にささやかながら、微力ではあるが「古典主義」を復権したいのです。解せぬのは、それがなぜ「知的スノッブ」と評されなければならないのか、と云ふことです。物の本によれば正仮名遣ひは小学生でも読めるさうです。もちろん現在の小学生ですよ。

たしかに正仮名遣ひは難しさうに思はれるかもしれません。しかし、いまでも文学全集を読もうと思へば正仮名遣ひに向き合ふ他ないのですが、読めない、と文句を云つてゐる人を僕は寡聞にして知りません。これは正仮名遣ひは読むときに何の障碍にもならないよい証左ではないでせうか。もう一度云ひます。ちやんと読めるのです。歴史的仮名遣ひは全然、難しくありません。事実、あなたもここまで読み進めて来てゐるではありませんか。

たしかに難しくないし何と云つても味わいがあるのです。書くのも最初のうちこそ、ちよつと戸惑ひますが文盲でもない限り誰でも書けます。誰もが読み書きできる仮名遣ひを使ふ人間をなにゆゑ、「知的スノッブ」と断ずるのか甚だ疑問です。弁明はこれでお仕舞ではありません。(参)につづきます。


弁明(壱)

先日の未明、夜更かしをしてパソコンでネット・サーフィンを愉しんでゐたら歴史的仮名遣ひはスノビッシュである、といふ意見に出合ひました。アマゾンのカスタマー・レビューにその意見はありました。アマゾンで某書を探してゐたら送料無料の新品が廉く売られてゐました。思はず買ひ注文をしようかな、と思ひましたが待て待て無駄遣ひはいけない、よほく考えよ、と心理的なブレーキが働き、カスタマー・レビューを読んでから判断しようと思つたのです。

同書のカスタマー・レビューを読んでゐたらネット上で「正字・正仮名遣ひ」を実践する人たちは《自分たちを「正字正假名を体得している意識の高い日本人」と規定し、「正字正假名を読めない書けない意識の低い日本人」を罵倒する、安直な知的スノッブに嵌まっている手合いが少なくない》と痛烈に批判されてゐました。

まづ、僕の他にも旧仮名遣ひで記事を書いてゐる人たちがゐるといふことに驚きました。そして思はずハッとさせられました。一応もつともなレビューで何なら鋭い、と評してもよい。旧仮名遣ひを使つてゐる者として反論したいが反論するには今日の紙幅では足りさうにないのでまた次の記事で弁明したい、と思ひます。乞うご期待。


汝等しづまりて我の神たるをしれ

タイトルは文語訳旧約聖書の詩篇四六篇一〇節にある言葉で「われはもろもろの國のうちに崇められ全地にあがめらるべし」と続きます。ここまでで一〇節です。静かにならないと神を知ることはできないのです。神の御前に静まり神と対話(祈り)をし、また瞑想するといふことをしなければ魂に安らぎは来ないのではありますまいか。

さういへば僕は最近あまり音楽を聴いてゐません。静寂の愉しさといふべきものが段々、解つて来たからかもしれませぬ。いまの人は四六時中、誰かと連絡を取つてゐないと気が済まないのでせうか。友と語らふといふのは悪くないですし大いに語らふべきですが自転車に乗りながらメールをするのはどうなんでせう。中には車を運転しながらメールをしてゐる人もゐるやうに聞いてゐます。

現代人は孤独が怖いのです。仲間が欲しいのです。さうして徒党を組んでスケープゴートを攻撃するのですね。実に非道い話です。良い意味での自分が不在なのです。独立独歩といふ言葉がいまではあまり使はれなくなつたのもむべなるかな、です。古色蒼然とした趣の言葉にさへなつてゐます。僕たちは時には周囲の雑音を意識して排し神のみまへに静まるひとときを持つべきではないでせうか。


クイズ【第二弾】

以前にクイズを出しましたが、第二弾です。また、呉智英の『大衆食堂の人々』からの出題です。なほ、引用は原文どほり正確に引用すべし、といふのが引用する際のエチケットですから僕もそのとほりに従います。すなはち、新仮名遣ひで記します。悪しからずご了承のほど、お願いいたします。答へが解つた読者は管理人にのみ閲覧できるやうにした上で当ブログ宛に送信してください。

《「あおげば尊し」といえば、これは、それこそナイーブな感性に訴えかけてくるような美しい曲なのだが、その歌詞は次に掲げるとおりである。

「あおげば尊し」
 あおげば尊し わが師の恩
 教えの庭にも はやいくとせ
 思えば①いととし この年月
 今こそ②わかれめ いざさらば

この歌詞を、知識のつめこみ教育への反抗から感情豊かにツッパリをやっていた少年たちは、それに代わるどのような知識をつめこんだからというので、涙まで流しながら歌えるのだろうか。

まず、傍線部の解釈をしてみよう。
 ①の「いととし」は、次のどれが正しいか。
(a)「いとしい」という意味。想い出してみると、この年月がいとしく感じられる。「と」が二つ重なっているのは、感動のあまり、つい、どもったもの。
(b)「いくとし」の訛ったもの。おもえば、この年月は、幾年になるか、という意味。訛ったのは、つい感動のあまり。
(c)「いと疾し」である。疾は疾風の疾。非常に早く過ぎた、という意味。

 次に、②の「わかれめ」は、どうか。
(a)「別れ目」である。今がちょうど別れ目の時であるという意味。
(b)「わかめ」に懸けた言葉。卒業はめでたいから、よろこんぶ、という意味。
(c)「別れむ=別れよう」が、強調の「こそ」を受けて、係り結びの已然形変化になり、「む」→「め」となったもの。今こそ、おわかれしましょう、という意味。》

長~くて御免なさい。読者諸賢は正しく答へられましたか。正解者はハンドルネームを当ブログ上の記事に掲載し、顕彰いたします。お愉しみに。


旧仮名遣ひ、如何ですか

読者諸賢よ、旧仮名遣ひで記事を書き出してから暫らく経ちますが、もう慣れましたか。詩歌では旧仮名遣ひがいまだによく使はれてゐることは知る人ぞ知る事実ですが、論文を旧仮名遣ひで書く人はさうはゐません。さういふ処でも他のブログとの差別化を図つてゐます。僕の記事は旧仮名遣ひを読むいい訓練にもなるでせう。記事を読むことによつて旧仮名遣ひの良さを知らず識らずわかつてもらへれば望外の悦びであります。

今、出版界は元々、旧仮名遣ひで著された本をわざわざ新仮名遣ひに改めてゐます。この間、書店に行つたら福田恒存の文庫本が新仮名遣ひに直されてゐたのには驚きを禁じ得ませんでした。この人は旧仮名遣ひに徹底して拘つた保守派の論客だつた人です。彼には『私の國語教室』(新潮社・昭和三十五年)といふ著作があり、戦後一連の国語改革に対して大反対して鋭く批判もしてゐるのです。その人の著作を新仮名遣ひに改めるとは実に心ない所業と言へるのではないでしょうか。

まあ、しかし新潮文庫の文字づかひについて同文庫本の裏を見ますとかう書いてあります。以下に引用します。《新潮文庫の日本文学の文字表記については、なるべく原文を尊重するという見地に立ち、次のように方針を定めた。
一、口語文の作品は、旧仮名づかいで書かれているものは現代仮名づかいに改める。(二以下略)》

なるべく原文を尊重するといふ見地に立つならば、旧仮名遣ひの文を現代仮名遣ひに直す必要はない、と僕は思ひます。それは原文を尊重するといふものではなく強い言葉で言へば原文を侮蔑することにさへなる、といふのが僕の考へです。

旧仮名遣ひは書くのは慣れないと骨が折れますが、しかし、それとて短い時間で済みます。まして、読むだけなら小学生でも読めます。あなたもここまで読んでくることができてゐます。旧仮名遣ひが決して難しくない証左です。つまり、国語改革なぞやる必要はなかつた。国語改革は間違ひだつた、といふことになります。

さういふ僕の気持を汲んで、これからも旧仮名遣ひの当ブログを愛読してくださるなら幸甚です。


物を書く意義

読者諸賢は、なぜ物を書くか、といふことを意識したことはあるでせうか。文章を書く理由は人それぞれに色々あると思ひますが、そのひとつに書くことにより自分の考へを識る、といふのがあると思ひます。文章を書くといふ行為を通じて初めて己の思想を識るのです。

おやつ、と思はれた方がをられるかもしれませんね。さうぢやない、まづ思想がさきにあつて、それを文章といふ形にして発表するのだ、と反論される方がをられるかもしれませんが違ふ。

書いてゆくうちに自分の頭の中の考へが判つて来るのです。これは物を書く経験を積めば積むほどさうと判る事実です。

したがつて、自分は普段、何を考へてゐるのだらう、と疑問に思ふなら自分の思ひを書き出すといふのはひとつの有効な手段である、と言ひ得る。さういふ次第で人は表現するのですね。

書き表した文章を読んで愕然とするかもしれません。俺は何て空疎で軽薄な文章を書いたのだらう、と。しかし、君の考へはそこに記された詰まらぬ文章以上でも以下でもない。違ふ、俺はもつと高邁で複雑なことを考へてゐるのだ、と言つてもはじまらぬ。

これが「文は人なり」といふ有名な諺の本当の意味です。表現といふのはげに怖ろしいものですね。さう思ひませんか。


就職活動

書店に行くと就職活動(以下、就活と表記する)のための本が所を狭しと大量に積まれてゐます。履歴書、職務経歴書の書き方から面接の際の細かな注意点、果ては自己分析、自己PRに至るまで様々です。就職活動は今や立派なビジネスになつてゐます。

本日未明四時過ぎにクルマで終日営業の書店に行つて来ました。未明のこととあつて客は極端に少なく、がらがらでした。現在、経済的にあまりにお粗末なので就活と併せて資格でも取ろうかな、と思ひ書店に足を運んだのでした。さういふ風に十重二十重に計画を練らなければ、またぞろ元の木阿弥になつて了ふとも限りません。金の遣り繰りで神経を消耗させるのはもう厭です。

僕も手を拱いてゐるわけでなく一生懸命、就活に励んでゐるつもりですが皆、「祈られる」。この「祈られる」といふのは今の就活でよく使はれる言葉ださうです。要するに「貴殿の益々のご活躍をお祈りいたします」といふ不採用通知に記載されてゐる文言が元です。僕もどれだけこの言葉に泣かされて来たことか。

二十四時間営業の小さくない店舗で面白い本を見付けました。全部、読んでから感想を記そうと思ひます。もちろん、就活に大いに関係のある本です。僕は書籍に関してはよほどのことがない限り古本で買ふのが常ですが今回に限り新品で購入しました。立ち読みしてそれだけの価値がある本だと思つたからです。

ところで山崎豊子の『沈まぬ太陽』は最終巻の<会長室篇・下>を読んでゐるところです。おそらくは明日、遅くとも明後日には読んで了ふでせうね。


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プロフィール

ヨシ樹

Author:ヨシ樹
昭和に生まれ、平成を生きる日本男児。
東京の大学を卒業して故郷の愛知県に戻る。
肉体労働や家庭教師、塾講師を経て現在に至る。
現在、未曾有の大不況下で苦しい転職活動を余儀なくされている。
経済状況は極度の貧乏。某市内の賃貸マンションを棲家としている。
いわゆる「勝ち組」「負け組」という二元論的なステレオタイプが大嫌い。
趣味はブログ執筆、読書、六弦ベース、オートバイ等々。ちなみに大型自動二輪免許保有。かつてハーレーを所有。
夢はオートバイでの海外ツーリング。具体的にはユーラシア大陸をBMWで走破することなどを考えている。
日本経済の酷いデフレを憂いつつも某市のリサイクル・ショップや古本屋によく出没する。
実は牧師の息子であり、幼い頃から聖書と教会に親しむ。

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