僕のこだわり

更新をさぼり申し訳ありません。毎日の更新はやはりキツイですね。アイデアはバーゲンセールに出すほどあると述べましたが、毎日違う記事を書く、というのは思いのほか辛い。覚えず毎日の献立を考え、料理を作ってくれた母を想起し今更ながら感謝しました。今回はそういう話をします。ブログのトピック(話題)について、です。

僕はブログでの記事を書く際、二つのこだわりがあります。一つは時事ネタについて書かない、もう一つはブログ会社(当ブログならFC2)の提供するブログネタに頼らない、という二つです。理由は至極単純で両者共に安直な書き方だと考えるからです。どうやら新ウォークマンは発売日を延期したらしいよ、だとかソフトバンクの多村選手が大リーグに移籍する可能性があるらしいんだってね、とやれば非常に書き易い。ブログネタも事情は同じです。

かように時事ネタやブログネタに寄りかかったトピックを書けば相当に楽です。したがって、方々のサイトで「パスタ食べました」やら「今日は眠い」やら「大河ドラマ見ました」などのどうでもいいような記事が量産されるのでしょう。

僕は書くからには、そして読む人がいるからには、意義のある記事を書きたいのです。時々、箸休めにくだらないことも織り交ぜますが…。とにかく、ありきたりの文章は草したくない。無数にあるブログの内から僕のブログをあえて選び、わざわざ読んでいただくわけだから少しでも有意義な記事をアップしたい、という考えを抱き、パソコンのキーボードを叩いています。最後にここまで読んでくださった読者諸賢よ、本当に有り難う。


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なぜ神はいない、と言うのか

ここに腕時計があります。デンマーク製の安い腕時計です。リサイクルショップで購入しました。とても使いやすいのでガラスにひびが入っていますが、いまだに使っています。仮に僕がこの時計を指して、これは突然出来たものだ、と言おうものなら読者は嗤うでしょう。一笑に付されて当然ですね。デンマークの職人が作ったからに決まっているゆえです。子供でも解る理屈です。

翻って地球について考えてみましょう。地球はビッグ・バンにより出現したものだと現代の科学は強弁しますが果たしてそうですかね。誰もよくよく考えてみようとしませんね。果たして地球が突然、出来るものでしょうか。ビッグ・バン仮説は誰も嗤おうとはしません。しかし、地球は神が創りたもうた、と主張すると前論理的である、とむしろこちらの方が論難される。

いいですよ。論難してごらんなさい。試しにやってごらんなさい。僕の主張する至極単純な理屈を論破できますか。果たしてどちらが正しいのでしょうかね。縦から見ても横から見ても論理の筋は造物主の存在を肯定しているように思えてならないのですが、あなたは神はいない、と言う…。


バイク版『深夜特急』

深夜特急5

沢木耕太郎の『深夜特急』シリーズはいずれも名著ですね。久々に良い本と巡り合えました。読書中は実に幸せな時間を過ごすことができました。全巻読了と記したいところですが第五巻がまだ購入できていません。僕が住む市にある古本屋のほとんどに足を運び、探したのですが第五巻に限って売っていないのです。まあ、後のお愉しみにとっておきます。

『深夜特急』はいわゆる紀行文学です。インドのデリーからイギリスのロンドンまでを旅する話ですがこの旅には一つのコンセプトがあってデリーからロンドンまでバスで旅行するというのがそれです。飛行機はむろん、鉄道も使わずバスのみを使い、ユーラシア大陸を旅するのです。

著者は旅のプロセスを存分に味わい、愉しんでいます。トラブルさえ面白がっている。それがキチンと読者に伝わるのですね。沢木は一年二箇月をこの旅に費やしている。なるほど、それくらい掛けなければこのように立派な紀行文は書けないでしょうね。

僕は沢木の二番煎じになるかもしれないけれどバイクでロンドンを目指したい、と思います。換言すれば、バイク版『深夜特急』の旅を是非、実現したい。そのためにはオフ車(BMWあたりが有名で丈夫そうだが百万以上する)を購入しなければならないだろうなあ。お金も貯めなければならないし、英語の勉強もしなければ…。体力もつけて健康も維持しないと、ね。

かつてのソビエト連邦のように五箇年計画で是非とも実現したいですね。考えるだけでわくわくします。それにしても良い本と出合えたものだ。しかし、欲を言えばもう少し若い時に読みたかった…。


ささやかな愉しみ

僕の趣味はオートバイに乗ること、六弦ベースを弾くことや読書だけではありません。ささやかな愉しみとして「朗読」も挙げることができます。

塾で愛すべき小五・小六のおチビちゃんたちを相手に国語を教えていた時、よく教科書を大きな声で音読していました。ともすると、中学生の授業でも音読をしていました。

最近では教会の礼拝で紙芝居(プロジェクターでスクリ-ンに投影します)の朗読もたまにさせてもらっています。何人かの方から褒めていただきました。

僕の十八番(おはこ)は詩人峠三吉の『原爆詩集』に収録されている<仮繃帯所にて>です。この詩が目下のところ一番、感情移入できます。ただ、十八番と言いながらまだ人前で披露したことはありません。

自分の好きな詩歌や散文を声に出して読む、というのは思いのほか愉しいことだと思います。皆さんも如何ですか。


廉い本を読もう!

深夜特急

読書の秋ですが読者諸賢は本を読んでいますか。大きなお世話だという声が聞こえてきそうですが読書は僕らの精神の滋養として必要不可欠というのが僕の信ずるところです。

僕は現在、沢木耕太郎の著した『深夜特急4』を読んでいるところです。大変面白い紀行文です。六巻で完結するのですが僕は四巻までをブックオフで一冊百五円で購入しました。

結構、前の本で背表紙が日焼けした、くたびれた文庫本ですから廉い値段が付けられているのでしょうけれど、これは大変お買い得です。すごく大雑把で乱暴に言ってしまえば名著と言われている本は廉いですね。廉い本は古本屋に行った際、狙い目です。

僕は以前から沢木耕太郎を知っていましたし、『深夜特急』シリーズが評判がいいことも承知していましたが読むまでには至りませんでした。しかし、本書は皆さんも一度お読みになるといい、と思ってお薦めします。

読み方としてはやはり一巻から順を追って読むのがいい、と思います。思うに物語の構成もランダムに読むことを想定していません。

ちなみに《ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ》そうです。


さよなら夏の日

達郎

波打つ夕立のプール
しぶきを上げて
一番素敵な季節が
もうすぐ終わる
「時が止まればいい」
僕の肩で
つぶやく君 見てた
さよなら夏の日
いつまでも忘れないよ
雨に濡れながら
僕等は大人になって行くよ
瞳に君を焼き付けた
尽きせぬ想い
明日になればもうここには
僕等はいない
巡る全てのもの
急ぎ足で
変わって行くけれど
君を愛してる
世界中の誰よりも
言葉じゃ言えない
もどかしさ伝えたいよ 今も
ごらん 最後の虹が出たよ
空を裸足のまま駆けて行く
どうぞ変わらないで
どんな未来
訪れたとしても
さよなら夏の日
いつまでも忘れないよ
雨に濡れながら
僕等は大人になって行くよ
さよなら夏の日
僕等は大人になって行くよ


山下達郎 アルバム「アルチザン」に収録の<さよなら夏の日>より全歌詞掲載

実は私たちは恵まれている

マスゾエ

終戦直後、非常に貧しくて、白いご飯を食べるなんて夢みたいな時代だったのが、今は飽食の時代と呼ばれるようになりました。テレビや新聞などのマスコミは、何かあるたびに「どんどん日本はダメになっている」というような批判を展開しますが、これまでの日本の歴史と、諸外国の歴史を比べれば、日本は悪い国だとは思いません。

平成バブル景気の崩壊などショックな出来事もありましたが、戦争に負けてからよくここまでやってきたと評価できるのではないでしょうか。

私たち個人レベルで人生を振り返ると、人の数だけ様々な人生があると思います。もちろん楽しい思い出だけでなく、失敗や苦い経験があると思います。しかし、糖尿病にかかってしまうホームレスがいて、国民が飢えることなく暮らせているのですから、幸せだと思わないと罰が当たるのではないでしょうか。


舛添要一著『マスゾエ式定年後極楽生活入門』(小学館)103頁・104頁より引用

味のある夜

昨晩午後十一時前、僕のケータイが鳴りました。こんな時間に誰だろう、とディスプレイを見ると懐かしい名前が表示されていました。かつて勤めていた塾の同僚・H先生の名前でした。

今からメシでもどうですか、という提案でした。昨晩は何も口にしていなかったので僕に否やはあるはずがないのですが、いかんせん金がありません。

正直に金がないのでまたの機会に、と一旦断りましたがH先生はメシぐらい奢りますよ、ということで近くのレストランで遅い夕食をH先生と共に食べました。結局、店が閉まる午前二時まで食べながら話をしていました。

腹がいっぱいになったのは勿論ですが胸もいっぱいになりました。H先生の何の見返りも求めない厚意に僕は心より感謝したい。仕事で多忙なH先生が僕のためにわざわざ時間を割いてしばし食事をしながらお互いの近況を話し合えたことに少なからず感謝しました。有り難う、そしてご馳走様、H先生。


進歩した文庫本

images安土往還記

最近、大きな活字で印刷されている文庫本を散見するようになりました。自分でも幾冊か持っています。

近所の大型店舗を構える書店で何時だったか、辻邦生が著した『安土往還記』(新潮文庫)を本棚から取り出して一瞥したところ、文字が大きくなっていて大変、読みやすかったことを思い出します。僕は同書をすでに所有していましたが昔の本のこととて文字が小さい。奥付を見ると平成十二年二十六刷と記してあります。

活字の拡大化は誠に歓迎すべきことであって、これからあらゆる方面に普及してほしいと思います。高齢化社会を目前に控えているわけですし、ね。これぞ読書のバリアフリーですよ。良い時代になりました。

読者諸賢よ、大きな活字で印刷されている文庫本で読書の秋を満喫しようではありませんか。


コメント募集中

当サイトをご愛読されている読者諸賢よ、兄弟ブログたる<「論」ブログヨシ樹>の記事に対するコメントを記してくれると誠に嬉しいです。読者のコメントには必ず返事を差し上げます。

本日、新しい記事「凡夫と天才」をアップいたしました。読者の皆さん、<「論」ブログヨシ樹>も不定期ではありますが更新しておりますので時々覗いてみてくださいね。ハタボーさん、大変遅くなりましたが「映画雑感」のコメントに対する返事を書きましたのでお読みくだされば幸いです。返事が遅くなりましたことを心よりお詫びいたします。

<ヨシ樹の雑記帳>と<「論」ブログヨシ樹>をこれからもよろしくお願い申し上げます。


管理人 ヨシ樹

人間愛

眠られぬ夜のために

いわゆる人間愛は、すべて神に対する強い愛という根底がなければ、単なる幻想であり、自己欺瞞にすぎない。なぜなら、そんな場合は、ただ最も愛すべきものだけを愛するか、自分を愛してくれる者を愛するかにとどまり、いつでも、この前提条件がなくなったと思われるときは、驚くほど早く、愛を減らすか、あるいは全くそれをやめてしまおうと決心するからである。それとも、人間愛とは要するに、かなり冷淡な一般的好意をあらわす、やや美しい言葉にすぎない。それはむしろ、本来、猛獣ですら満腹すればその周囲に対して示すくらいの非攻撃的な態度のことである。

このような人間愛では、一方に年々幾百万の人たちが精神的あるいは肉体的に餓死することも起りうるし、しかも、人はそれをひどく悲しむこともなく、また自分はほんの僅かな不自由をも忍ぼうとしないのである。


『眠られぬ夜のために・第一部』ヒルティ著(岩波文庫)257頁より引用

スポーツ 後編

昨日は僕の誕生日で中断してしまいましたが一昨日の記事の続きを掲載したい、と思います。以下のとおりです。

僕はスポーツは本来、愉しんでするものだと思います。スポーツが、いわゆる<巧拙>と結びつけて考えられるから辛くて不幸せなものに堕落してしまったのではないでしょうか。

現実には苦しんでするスポーツと愉しんでするスポーツの二種類があると思います。けれども、よくよく考えれば本来スポーツは人の幸福に奉仕する一つのゲームに過ぎない。

スポーツとは愉しんでする以上の価値を持たないし、またそれ以下の価値を持つものでもないはずではありますまいか。

僕は愉しむことができなければスポーツをする意味がない、とさえ考えています。スポーツの<巧拙>を必要以上に過大評価する今の風潮に異を唱えたい、と思います。


とうとう××歳!

私事で誠に恐縮ですが(いったいにこのブログの記事は何処も彼処も私事ばかりですが…)、本日九月十日は僕の××回目の誕生日であります。

まだまだ未熟者ですが年だけは立派な年齢になりました。もろこしの聖人と言われた孔子のたまわく、…おっとヤバイ余計なことを述べると実際の年齢がバレてしまう。くわばらくわばら…。

僕の敬愛する文学者たる小林秀雄は<Xへの手紙>のなかでこう述べています。《或る苦労人に言わせると「光陰矢のごとし」という諺(ことわざ)が、凡そ人間の発明した諺のうちで、一番いい出来だそうである。成る程何はともあれこの諺は極めて悲劇的である。悲劇的なものは、何はともあれ教訓的なのだろうと俺は思う。この諺は俺にはまだ少々見事すぎる、腹にこたえる程俺はまだ成熟していない様に思う。だが甚だ教訓的なのだろうと思ってみただけで、既にこの身が恐ろしく月並みな嘆きのただ中にいる事を感ずるのに充分だ。》

さすがに小林だけあって今の僕の心境を言い表すのに適切な文章であります。本日はたくさんのご祝辞が当ブログへ寄せられることを期待してひとまずペンを擱きます(本記事は九月九日の記事として発表しようと思いましたが間に合いませんでした。誠に遺憾であり、申し訳ありません)なお、<スポーツ 後編>は明日か明後日、掲載する予定です。読者諸賢のご諒解を願います。


スポーツ 前編

朝晩、虫の音が聞こえて来るようになりましたね。すでに暦の上では秋ということで今回は<スポーツ>について二回に別けて僕の意見を掲載いたします。以下のとおりです。

オリンピックで金メダルを取るために選手たちは僕たちの想像を絶するくらいのハード・トレーニングを幼い頃から積み重ねています。そのせいでしょうか僕はスポーツという言葉の響きから意志的で厳しい、いわゆる<ストイック>という単語をつい想像してしまいます。

スポーツで上達するにはどうしても辛い訓練に長いこと耐えなければなりません。スポーツ選手で功なり名を遂げている選手たちは皆、例外なく練習の虫です。

例えば、メジャー・リーガーとして知らぬものはいないイチロー選手が小学生の頃から友達と遊ぶ時間まで削ってバッティング・センターに通っていたことは余りにも有名です。

それでは、徹底的に練習すれば、努力すれば誰でも上手くなるかというと、そうではありません。訓練はあくまで必要条件であって十分条件ではないのです。そのせいもあるのでしょう。僕はスポーツという言葉の響きから何かしら<哀しみ>をも想像してしまいます。

― 後編へつづく ―


教養人もどき

かつて正社員として勤めていた塾にいた講師で「言質」という言葉が読めず、意味すらも理解できていない先生がおられました。教えてくれ、とのたもうたので断る理由もありませんから丁寧に教えてあげました。

「先生、それは<げんち>と読み、意味は<言葉が人質に取られるようなもの>です」正しくは<言葉が質草に取られる>という意味ですが「質草」という単語の意味についても知らないのではないかと慮って<言葉の人質>という風に教えてあげました。「人質」という言葉の意味はもちろん、<人を質草に取る>という意味です。これが原義です。

かように「質草」という単語を充分に理解している者ではじめて「言質」や「人質」という言葉の意味を明確に把握することができるのです。ちなみに「質草」は何と読むのでしょうか。もちろん、<しちぐさ>と読みます。

次に僕のこれまでの人生で見聞きしたことを記します。理系の国立大学の大学院生で「紅葉狩り」を<こうようがり>と読んだ男性がいました。プライドが高く人を見下すほどの彼ですが何と教養のないことか。<もみじがり>が正解です。噴飯もののミステイクです。

立派な文章を書く読書家の某氏は「口伝」を<こうでん>と発音しましたが僕はそれを聞き咎めて、すかさず、それは<くでん>と読むのだと申し上げたところ恐縮されていました。

塾講師や国立大学の大学院生、立派な文章を草す読書家であれ肩書きほどには大した教養はない、と知るのはちょっぴり愉快なことかもしれません。


かつて美しい漢字ありき

太平洋戦争末期に米軍が、兵隊や民間人を選ばず沖縄の人たちへ投降を促したビラを写真で見たことがあります。僕はその当時の日本語で記された文面を見て非常に美しいと思いました。いたく感動したのです。漢字はその当時のこととて複雑な形をしていましたが、うっとりするほどの美しさでした。

昨晩、丸谷才一の著した『日本語のために』(新潮文庫)を読み返していましたら、終戦直後の国語改革について述べられていた箇所に行き当たり、強い怒りを改めて覚えました。これは国語改悪といっていい。後世の日本人(僕らのことでなくて誰を指す)にみすぼらしい漢字を読み書きすることを余儀なくさせたのですから。

僕の日本語に対する態度は丸谷と全く同じで<古典主義的態度>であります。乱暴に言ってしまえば、伝統を尊ぶ、という姿勢ですね。保守的だと思われますか。そう思われても寸毫も痛痒を感じませぬ。それほどくだんの改悪は酷かったのです。

現在の漢字の字体は一体に単純過ぎます。難しく複雑であるのは何となく高尚だと言うのではない。美しい漢字の魅力を解さない文部省の石頭役人が音頭を取って当時の識者をして、かつての味わい深い漢字体系をめちゃくちゃにさせた愚行に我慢ならないのです。怒りを覚えるのです。かつて美しい漢字がありました。今はもうありません。


認識と行為

行為として顕現してこない思想などいかに高邁であれ実際の物の役には立たぬ、ということはなるほど一応もっともであると言い得ると思います。けれども、認識も力があるものだ、とういう真実の側面を今は昔のカセット・テープで小林秀雄の講演を改めて聴くことにより反省させられました。

本居宣長の有名ないわゆる<もののあはれ>論が契機です。<もののあはれ>というのは行為ではなく認識です。まず、認識から始まるのです。あー、はれという嘆息、もう少し言えば感動というのはまず認識から始まります。

したがって、小林秀雄の『無常という事』には次のように記されていますが別段怪しむに足りない。

《文学者は、思想を行う人ではなく、思想を語る人だ。今日のように、実行の世の中になると、文学者などは口説の徒ではないか、という人が増える。そんなことを言う人が増えても減っても、文学者は昔から口説の徒たることにいささかも変わりないので口説の徒で充分であると信ずる者を動かすことはできませぬ。》

以上は戦時中の文芸銃後運動の講演の筆記です。そういう特殊事情はありますが我々現代人が認識をいかにおざなりに考えているか、ということを反省するのはよいことだと思うのです。むろん、行為が重要であることはいささかも動かない。それはそうなのですが、行為を重視するあまり認識を軽蔑しているのが現代ではありますまいか。

そして、行為の行き着いた先はなんですか。愛ですか。否、憎悪でしょう。憎悪による殺戮ではありませんか。人を殺すというのも立派な行為です。僕は何も詭弁を弄しているわけではありません。現代の行為至上主義を一度この記事を読んだことを契機に読者各人が改めて考えてみるべきではないでしょうか。


メメント・モリ(死を想え)

僕の親父はキリスト教会の牧師でありながら結構、ネガティブなことを言います。ある時、ネガティブな言説に納得がいかずもう少しポジティブな物言いをしなよ、と言いましたら、それはヒューマニズム(人間中心主義)の考え方である、とむしろたしなめられました。

現代は明暗で言えば「明」に注目することが重要であるという考え方が支配的ですね。誰もがポジティブ・シンキングは大切だと主張し誰も怪しむ者はいない。そもそも積極思考がなぜそんなに大事な考えか少しも反省しませんね。

旧約聖書の伝道之書七章三節・四節を以下に引用しましょう。

《悲哀(かなしみ)は嬉笑(わらひ)に愈(まさ)る其(そ)は面(かほ)に憂色(うれひ)を帯ぶるなれば心も善(よき)にむかへばなり 賢き者の心は哀傷(かなしみ)の家にあり愚かなる者の心は喜楽(たのしみ)の家にあり》

ここには少しも現代流のいわゆる積極思考を見つけることはできませんね。冒頭のキリスト教会の牧師でありながら、という表現は<キリスト教会の牧師だからこそ>という風に改める必要があります。

この記事のタイトルである<メメント・モリ>とはラテン語で「自分は(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。日本語では「死を記憶せよ」と訳されるのが普通だそうです。

死を忌むべきものとして顔を背けるか、死を乗り越えられえるものとして真摯に対峙するか。あたたはどういう態度を取りますか。積極思考派のあなたなら死に対しても積極的に考えませんと、ね。ポジティブ・シンキングをするならそこまで徹底したまえ。


同窓会

二〇一〇年八月一四日土曜日午後六時半から僕の住む市内の某レストランで五年ぶりに小・中学校合同の同窓会が催されました。

僕が少年時代に住んでいた校区は小学校を卒業してもそのまま同じ顔ぶれが中学生になるという珍しい校区でした。そのような事情もあって小・中合同の同窓会が開催されたのです。

会が始まってしばらくすると見目麗しい一人の女性が僕の名をフルネームで呼んで微笑んでいました。彼女は自分の旧姓をこれまたフルネームで僕に告げて愛想よく僕の顔を眺めていました。悪い気はしませんでしたが僕はすでに彼女と僕が昔、どういう関係にあったか名前も顔すらも全て忘れていました。僕がへどもどしていると彼女の顔が歪み、「もういいよ」とつれない言葉。

会の冒頭でのこの出来事は何か僕の現在の立場を象徴しているかのようです。僕の同窓はほとんどが結婚しており、もちろん定職に就いてバリバリ働いています。これは男性の場合。女性は子供を誕み、子育ての話などで盛り上がっていました。翻って情けないことには僕は無職の独身男です。

僕がこの同窓会で否応なく感じさせられた思いを一言で要約するならば、それは<強烈な疎外感>にほかなりません。僕は二次会に出ることもなくトボトボと夜道を独り歩いて自分の住まいまで帰ったのでした。

けれども、悪いことばかりあったわけではありません。一次会の終了間際の集合写真撮影の際、顔も名も知れぬ女性が僕を認めて声を掛けてくれたのです。「あんた、牧師さんになったの?」僕が首を振ると、「あんた、教会の息子で賢かったじゃない?期待していたのよ」誰かも判らない女性の励ましに満ちた優しい気遣いが暗い胸中に一条の光として差し込んできたかのようでした。僕はとても嬉しかった。残念至極なのはその女性についてこちら側は何一つ覚えていないということですが…。彼女も含め僕のかけがえのない同窓たちに五年後は朗報を伝えたい気持でいっぱいです。


素直に学べない人は、続かない

続ける力

「守・破・離」という言葉があります。もともとは室町時代に能を大成した世阿弥の言葉といわれています。

「守」とは、指導者の教えを忠実に守って、「型」をしっかり身につける段階のことです。そこで学んだ基本に自分のオリジナリティを加えるのが「破」、さらに指導者から独立して自分の道を切りひらくのが「離」。この三つの段階を経て、初めて一人前になることができます。

ところが素直でない人は、最初の「守」の段階で、「型」を受け入れることができません。変な自信があったり、いろいろな情報にまどわされたりして、指導者のいうことをきかない。

「続ける」ためには、まずきちんとした「型」を身につけることが不可欠なのに、それではなにも身につきません。ただ、ムダに時間が過ぎていくだけです。将棋でいえば、定跡の研究もしないでプロの棋士になろうとしているようなものです。

「学ぶ」という言葉は、「真似る」に起源があります。

ひとつのことをなしとげるには、まずは、いわれたとおりのことをやる素直さが大切なのです。


伊藤 真著『続ける力』(幻冬舎新書)79頁・80頁より引用

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プロフィール

ヨシ樹

Author:ヨシ樹
昭和に生まれ、平成を生きる日本男児。
東京の大学を卒業して故郷の愛知県に戻る。
肉体労働や家庭教師、塾講師を経て現在に至る。
現在、未曾有の大不況下で苦しい転職活動を余儀なくされている。
経済状況は極度の貧乏。某市内の賃貸マンションを棲家としている。
いわゆる「勝ち組」「負け組」という二元論的なステレオタイプが大嫌い。
趣味はブログ執筆、読書、六弦ベース、オートバイ等々。ちなみに大型自動二輪免許保有。かつてハーレーを所有。
夢はオートバイでの海外ツーリング。具体的にはユーラシア大陸をBMWで走破することなどを考えている。
日本経済の酷いデフレを憂いつつも某市のリサイクル・ショップや古本屋によく出没する。
実は牧師の息子であり、幼い頃から聖書と教会に親しむ。

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