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ヨシ樹

Author:ヨシ樹
昭和に生まれ、平成を生きる日本男児。
東京の大学を卒業して故郷の愛知県に戻る。
肉体労働や家庭教師、塾講師を経て現在、名古屋市で暮らす。
家庭教師は週末に副業として続けている。
いわゆる「勝ち組」「負け組」という二元論的なステレオタイプを嫌う。
趣味はブログ執筆、読書、音楽鑑賞、六弦ベース演奏、バイク・ツーリング等々。
ちなみに大型自動二輪免許保有。かつてハーレーを所有。
夢はオートバイでの海外ツーリング。具体的にはユーラシア大陸をBMWで走破することなどを考えている。
日本経済の非道いデフレを憂いつつも名古屋市のリサイクル・ショップや古本屋によく出没する。
実はプロテスタント教会の牧師の息子であり、幼い頃から聖書と教会に親しむ。
読者からのコメントが大好物。

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ヨシ樹の雑記帖

日々の出来事を中心に自分の思いを簡潔かつ正直に綴ります。兄弟ブログ“「論」ブログヨシ樹”もよろしく!
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俺おれ主義

人生の先輩たちが営々と貯めてきた財産を狙った「俺おれ詐欺」という犯罪がありますね。被害に遭われた年輩の方々には全く同情しますが、このネーミング、なんだかユーモラスです。それゆえに閃(ひらめ)くものがありました。

思うに吾人は生き方において、いわゆる「俺おれ主義」になる危険と常に隣り合わせなのではないか、と。つまり吾人は、ともすると利己的で自己を中心とした生き方に傾きがちになるのではあるまいか、と考えたわけです。

これは、もちろん老若男女を問いません。昨今では権利意識が高まり、自分の権利ばかり声高に主張している輩(やから)が確実に増えてきています。例えば、横断歩道を渡るときにクルマが待っているのに一瞥(いちべつ)も与えずに、ゆうゆうと歩いて横断している歩行者をよく見かけます。

美しくないですね。小走りに横断している年少の子供たちの方に覚えず好感を抱くのはひとりわたしだけではないのではありますまいか。わたしは、そういう人たちの生き方を「俺おれ主義」と名付けたいと思います。

わたしはキリスト者として自分のうちにあるいわゆる「俺おれ主義」と対決したいと考えています。自分自身の生き方をとおして「俺おれ主義」とは正反対の生涯があるのだ、と実証してゆきたいですね。

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思想と年齢


いつの頃からか、わたしの髪にも白いものが混じるようになりました。若い頃には必要なかった白髪染めなぞ煩わしい限りです。しかしながら、フォーマルな会合に臨むときに胡麻塩頭(ごましおあたま)というのでは相当にみっともないかな、という心配から自由ではない、というしだいで白いものが混じった頭を梳(くしけず)る時、鏡を見て苦笑するのみであります。

人生の折り返し地点を過ぎて久しいです。思うに「光陰矢の如し」という古くからある言葉は真実ですね。よく出来た言葉だと思います。段々そういうふうに考えるようになりました。左様なことを考えるようになった、ということは取りも直さず、わたしが年を取ったということと少しも違いません。

最近、巷間には、いわゆるアンチエイジングという思想的潮流がありますね。年齢を重ねても活き活きと暮らしたい、ということなのでしょう。いわゆる加齢に負けることなく、いつまでも若々しく生き続けたいという強い願いを抱いて、フィットネスジムなどに通うことがひとつのトレンドにまでなっています。しごく結構なことではないか、というのが現代っ子の意見なのではありますまいか。そういうしだいで今回は思想と年齢の関係をテーマにして記事を書いてゆきたいと思います。

「いつまでも若々しいですね」という言葉は今や年輩者の歓心を買う最も有効なお世辞のひとつになっています。年輩の綺麗な女性を指して「美魔女」などという新しい言葉も生まれています。けれども、翻って考えると、こんなに馬鹿馬鹿しいことはない。それでは齢(とし)をとった甲斐がないではありませんか。年齢にふさわしい信仰、思想、哲学等が、そのひとの内に醸成されていなければ何のために齢(とし)を重ねたのか、ということになるのではありますまいか。思うに今までどういう生き方をしてきたのか、という後悔をすることにもなりかねません。

アンチエイジングという現代の思想的潮流の背後には合理主義の思想があると思います。二に二を足せば子供にとっても四ですし、大人にとっても四です。答えに変わりはありません。大人や子供を問わず誰にも納得のゆく答えが出ます。そう、合理主義思想に年齢は関係ないのであります。もっと申しますと合理主義思想は年齢というものを軽蔑するのです。合理主義思想は先輩、後輩の区別など何とも思っていないのであります。

しかしながら、思想というものは、もともと年齢と関係があります。年を取らなければ判らないということが人生には無数に存在します。それは吾人のこれまでの経験に照らしても納得できます。たとえば『論語』には「四十にして惑わず」と記されています。二十代や三十代では、まだまだ惑わずとは言えないのであります。左様なことは常識で考えても十分に理解することができますね。

風貌(ふうぼう)だってそうです。四十代の顔とか姿というものに何とも言えない深い人生の実相が刻まれているのであるならば吾人はそれを忌避(きひ)すべきではなく、むしろ歓迎すべきではないでしょうか。「いつまでもお若いですね」などと言われて、へらへらと、脂下がっていてはいけないのであります。お世辞を言っている相手は「お若いですね」と言いつつ心のなかでは「精神年齢的にはね」と但し書きを付けて、こっそり舌を出していないとも限りません。

吾人は赤ん坊として出生して老人になり遂には死を迎えます。我々は齢を取るにつれて、その抱いている思想が深まってゆかなければなりません。吾人は中年なら中年らしい、青年には持つことができないような立派な人生観を持ったうえで一日一日を過ごすべきであります。各人が、それぞれの年齢に達しなければ抱けない人生観を持つべきなのです。思うに、なんでもそうですが日々是精進であります。怠けていては見込みがない。

人生のどのステージでもそういう真剣な気持ちで生きてゆきたい、とわたしは常々考えています。いつまで経っても青年なみの考えで止まっていては駄目ですね。年配者にもかかわらず、いつまでも青年らしいですね、と褒められて悪い気がしない、というのでは実にいけませんね。中年の思想には中年にならなければ表現できないような味わいがあるべきです。それでこそ齢を重ねて来た甲斐がある、というものです。

わたしもいい齢になりました。巷(ちまた)で流行している浅薄なアンチエイジングという時代の潮流を唯々諾々(いいだくだく)と追認するのではなく、四十なら四十という年齢に丁度ぴったりな立派な思想を自分の内にぜひ宿らせていたいものですね。自分自身のこれからの生き方が聖書的でない人々とは対照的で、そういう世俗的な生き方を決してやめようとしない人々に対する強烈なアンチテーゼになっているといいなあ、とも考えています。ちなみに「世俗的」という言葉の定義は「宗教的ではない」です。

わたしがアンチエイジングという当世風の思想を歓迎できないいちばん肝腎なところを申しますと、それは、すなわち、死というものを真面目に考えようとしない不健全な姿勢にあります。老若を問わず、性別を問わず、貧富の別なく、能力の差にかかわらず、誰であれ吾人は必ず死に至ります。財産家だから死を免れるなどという馬鹿なことはありません。

死は公平に人を選ぶことなく皆に臨みます。それなのに、我々はなぜ死を避けるのでしょうか。なぜ死と真摯に取り組もうとしないのでしょうか。それは著しく不自然なことではありますまいか。そして、不健全といわれても反論できないのではないでしょうか。

こうして思想と年齢の問題を論じて来て、いわゆる死の問題に至りました。死の問題を避けて思想と年齢という論点を有効に考えることは不可能です。わたしは思想問題を扱うに際して年齢を論ずることは不可避であり、さらに死の問題を積極的に考える、という立場をとります。

なぜならば、死の問題は万人にとって切実で避けては通れない問題であり且つ死の解決はある、と信じているからにほかなりません。人は死んで無くなるのではありません。魂は不滅であります。古典中の古典である『聖書』が倦まず弛まず教えているとおり死の彼方(かなた)には永遠の世界が存在するのであります。

我々はいつまでもこの世に生きていられるわけではありません。吾人は、よく生きて七十、八十でしょう。百年も生きれば、いわゆる大往生(だいおうじょう)であります。わたしたちの生涯は、もう間もなく終わります。宇宙の営みからすれば我々の人生なぞ瞬(またた)く間の出来事にすぎません。ほんの一瞬です。吾人の寿命など、その本質において蜻蛉(かげろう)の寿命と選ぶところはありません。

我々の人生は明日、終わるかも知れない儚(はかな)いものであります。栄華を極めた豊臣秀吉も「難波のことも夢のまた夢」と言って死んでゆきました。自らの権勢に未練たらたらで世を去ったのです。したがって、歴史を知っている後世に生きている我々は秀吉の轍(てつ)を踏まないように死について十分に考えて備えておくということが、どうしても必要になります。

日本史に名を遺し、太閤とさえ言われた秀吉でさえしてやられているのです。秀吉のように現世に対して未練がましい態度で臨終を迎えないように吾人は死についてしっかり考え抜くことが大事であります。読者諸賢もこの記事をきっかけに自分の死についてゆっくりと考える時間をつくってください。

忙しい日常のなかで自分と向き合うひとときを捻出することは、とても大事なことだと、わたしは考えます。そう、捻出するのであります。価値のある時間をつくるために工夫をするべきであるのは殊更に述べる必要のないことです。皆、実行している何でもないことです。死について考えることは非常に価値のあることなのに全くおざなりにされているので考える時間をつくる工夫をするべきである、とわたしは提案しているのであります。

将来かならず経験するであろう死に備えて吾人はどんな準備をすればいいのでしょうか。すでに述べたように死の問題を避けるのではなく死について真面目に考えることから始めるべきです。死について考えるコツは死の彼方を見晴るかすことにあります。言い換えますと死後について思いを致す、ということです。それでは、死後について思いを致すためにはどうしたらよいのでしょうか。友人と議論したり、ただ空漠と自分で考えても高が知れています。

我が田に水を引く物言いになるかも知れませんが、お住まいの近くの教会に行くこともいいのではないでしょうか。教会に行く、というわたしの提案に心理的な抵抗を感じるのであれば、せめてご自分で『聖書』を読んでみるといいかも知れません。死について備えたい、と真剣に考える時に昔の人の叡智が結集している古典を読む、という必然性が生まれるのであります。読者諸賢は『聖書』という書物を一度でもいいから読んだことがありますか。

原罪とは何ですか。新生体験とは何ですか。使徒とは何ですか。聖霊とは何ですか。いわゆる精霊とは異なりますよ。知らないでしょう。獄死した哲学者たる三木清が著した『人生論ノート』の「個性について」という章の冒頭部分には「バールの僧侶」という言葉が当たり前のように出て来ます。では、「バールの僧侶」とは誰のことを指すのですか。ピンと来ないでしょう。『聖書』を知らないからです。これではいけません。世界の大古典を読まないというのは知的な怠慢である、とわたしは躊躇(ためら)うことなく指摘しておきたい。

さはさりながら、以上のように述べただけだと『聖書』を読んでいない読者諸賢に対して配慮に欠けることとなります。急いで指摘しておきたいのは『聖書』は難解で晦渋(かいじゅう)な書物ではない、ということです。左様に思い込んで、しり込みする必要はありません。世界中の老若男女が読んで来た書物であり、現在も読まれており、将来にわたっても読まれて行く書物です。『聖書』が難しい、という先入観もやはり『聖書』を知らないことに起因します。

死後について書かれている本を読む、というのは死後について考える際に最も賢い選択のひとつである、とわたし考えます。ただ、誤解のないように申し添えますが死後について記されている本であれば何でもいい、と主張しているわけではありません。例えば死後について間違ったことが書かれているのであれば、その本によって益を受けるよりは損害を受けてしまいます。

繰り返しになりますが読者諸賢には、ぜひ不滅の大古典である『聖書』を読んでいただきたい。『聖書』を読むという選択には間違いがない。これは、わたしの信仰ですが。とにもかくにも時代の風雪に耐えて世界中の人々に読み継がれて来た大古典たるバイブルを読むことをお勧めしたいのです。わたしがここでいう『聖書』とは『旧約聖書』と『新約聖書』のふたつを指します。さらに申しますと、いわゆる「新改訳」の『聖書』をお読みになることをお勧めします。なぜならば、「新改訳」は原典にすこぶる忠実な訳である、とされているからです。

読書の時間とは時空を超えた人間の知恵を獲得できる貴重なひとときなのです。古典を読みますと昔の人の体験が文字となって記されていますね。なぜ江戸時代に起こった事件を現代に生きる我々が知ることができるのですか。当時の事件の模様を書き残した人がいるからです。これは、すなわち時間を超えていると言えますね。空間も超えていますよ。わたしたちは外国の物語を日本に居ながらにして読むことができます。

読書の時間とは時空を超えた人間の知恵を獲得できる貴重なひとときなのである、というのは一般論として決して間違ってはいません。けれども、『聖書』に限って申しますと人間の知恵を越えた神の知恵を知ることができる、という点で他の本とは一線を画します。そこが『聖書』が他の書物とは決定的に違うゆえんです。それゆえ、長いこと読書に親しんできた筋金入りの読書人にも応じますし、読書をはじめて日が浅い初心者にも応じてくれます。『聖書』は、それほどに懐が深いのです。そして、底知れず奥が深いのであります。

思想と年齢の関係については、まだまだ述べたいことがありますが長くなりますので別に機会があれば改めて記述することにします。いつ書けるものかも分かりませんが乞うご期待。最後になりますが借り物の思想ではなく自分なりの死生観を早いうちから確立しておくことの重要さを自戒の念を込めて記したうえで擱筆(かくひつ)します。

敬愛する父さんへ

以下の文章は今年の父の日に日頃お世話になっている父に宛てて書いた私信です。パソコンのソフトで清書しました。私信ですから本来おおやけにすべきではない、といったんは考えたのですが原則あるところに例外が僅かなりともあってもいいのではないかと考えなおし、当ブログに記事として残すことに決めました。左様に考えるようになったのは今年、パソコンのハードディスクがクラッシュしてデータがすべてぱあになった苦い経験があるからです。

ハードディスクが駄目になるとバックアップを取っていない限り、データを回復する術(すべ)がなくなります。今後は、そうならないように細心の注意を払うつもりですが、それでも万が一ということがあります。万が一を考えてデータとして残してある父へのお礼状をブログに記事のかたちとして残すことに意味があるのではないかと考えるに至りました。もしかしたら読者諸賢にとって今回の記事は詰まらない記事になるかもしれませんが、ご容赦願います。それでは以下に父に出したお礼状を記します。
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敬愛する父さんへ

初夏の候、父さんにおかれましては、いかがお過ごしでしょうか。天気予報では梅雨入りが宣言されたにもかかわらず今週は爽やかに晴れた日がつづいて過ごしやすかったですね。外に出てバイクで走っていても清々しく爽快でした。父さんの体調の方はいかがですか。調子はよろしいでしょうか。希望されていた納屋橋饅頭はお手許に届きましたか。

現在わたしはⅮ・M・ロイドジョンズの『旧約聖書から福音を語る』(いのちのことば社刊)を読んでいます。読んでいて教えられることが多くあります。こういう説教には、なかなかお目にかかれません。こういう本こそ読む価値のある本だと言えます。ロイドジョンズの説教は本として刊行されて久しいですが今でもヤフオクなどで閲覧していると高値で取り引きされています。それだけの需要があるわけです。

わたしは以上の状態を憂慮します。そして、とても嘆かわしいことだと考えます。というのも裏を返せば、ロイドジョンズのような立派な説教が稀であるということを証明していることに他ならないからです。わたしが思うに講壇から説教者本人の勝手な感想を述べてみたり、適当な思いつきを話してみたり、神の国の大使という自覚に欠ける牧師が少なくありません。恥を知るがいいのです。

来るべき永遠に生きる世界のことに思いを致せば、説教もそうですが、そもそも牧会をすることに畏れを持たなければいけない、と考えますが父さんのお考えはいかがでしょうか。名古屋にある某教会では洗礼式のときに、これから受洗する子供がふざけた態度で誓約していたにもかかわらず司式している牧師は叱ることをせずに洗礼式を終えました。一部始終を見ていたわたしはすんでのところで大きな声を上げそうになりました。

この地域では、まともな教会がひとつもない、とわたしが主張したら相当な辛口の評価になるのでしょうか。もしかすると神の僕を正当に評価せずに不平不満ばかりを言っていたうなじのこわい荒野のイスラエルの民のように思われるかも知れませんね。しかしながら、そうではない、と強く否定したいのです。

否定する証拠を挙げるのは、そんなに難しくありません。わたしは父さんの牧会を振り返って批判がましいことを申したいとは露ほども思わない。こういう事実が不従順のイスラエルの民とは違うところだ、と主張したいのです。父さんが自分の身内だからではありません。わたしは自分の身内であればあるほど、親しくなればなるほど遠慮なく意見するタイプの男です。おそらくこのことについて父さんであれば躊躇うことなく首肯してくれるだろうと思います。

なによりもⅮ・M・ロイドジョンズの本を飽くことなく昔から今にかけて読んでいることが、わたしの一連の主張が的を射ていることの有力な根拠になるのではないでしょうか。ロイドジョンズの本を読んでいるとキリスト者としていかに生きるべきかが分かってくるのですね。こんなに嬉しいことはないではありませんか。人生とは何かとか、人としていかに生きるべきか、の答えが明瞭に記されている本を読んで感心しないというのはおかしなことであります。

以上のことは、いにしえの賢人ですら考えあぐねていた人生の根本問題であります。例えば、ソクラテスはソクラテスで孔子は孔子であんなにも深く考えているのに真理には至りませんでした。イエス・キリストをとおしてしか神に至る道はないゆえんです。キリスト以外の道から真理に至ろうと努めても無駄な努力であります。

わたしはクリスチャン・ホームで育まれて幸せです。左様に申し述べるのにいささかも躊躇いを感じません。おそらく、わたしは死ぬまで貧乏なままでしょう。結婚ももはや望むべくもない。けれども、それだけにこの世の生の次に展開する永遠の世界におおいに期待するものであります。自分の父が牧師であることに神のおおいなる恵みを思うのです。父さんに心より感謝を申し上げたいです。本当にありがとうございます。季節は梅雨に向かい、だんだん暑くなってまいります。母さん共々ご健康にお気をつけてくださいね。それでは、またお逢いする日までどうかお元気で。
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先輩たちの殉教を想え!

かつて時事通信社から出されている『日本キリシタン殉教史』という分厚い本をネット・オークションで安く落札して途中まで読み進めたことがあります。残念ながら今に至るまで読了できていません。わたしの場合、読まなくてはいけない本があり過ぎます。

わたしは別段、読書が好きなわけではありません。わたしの場合、本を読む理由は、ほとんどが必要に迫られて、です。のっけから少々、脱線しましたが今回の記事では、いわゆる「キリシタンの殉教」について述べたいのであります。

件(くだん)の本を読みますと、わたしらの先輩であるキリシタンの純粋さ、真摯さというものに襟が正される思いがしました。それに比べて現代に生きるわれわれ後輩キリスト者の軽薄さ、偽りの陽気さ、意味のない明るさは一体どうしたことでしょう。

かつてクリスチャンだけの婚活パーティーに足を運びました。そのときに本当に情けない経験をしました。読者諸賢は嵐という男性アイドルグループをたぶんご存知でしょう。彼らは有名ですからね。嵐は著しい人気があるのでコンサート会場に入るには抽選になってしまうのだそうです。

その抽選に当たるように神に祈った独身のご婦人がいました。言うまでもなく彼女はキリスト者です。クリスチャン限定の婚活パーティーですからキリスト者というのが出席するときの前提条件なわけです。

わたしは、そのご婦人を心の底から軽蔑しました。こういうのを涜神(とくしん)というのでしょうね。話しぶりや話しているときの表情から判断して彼女は嘘は言っていないようでした。わたしが思うに嘘の方が、まだましだったのかも知れません。

彼女にとって文字どおり嵐がアイドル(もともとは偶像という意味)になっているのです。なお悪いことに本人は屈託なく話し、笑いのネタのようにこの話題を持ち出していたのであります。つまり自分の軽薄さに全く気づいていないのであります。

わたしは、その場で聞いていましたが、聞いていて、とても情けなくなりましたし、なんだか無性に腹が立ちました。果たして彼女は本当のキリスト者と言えるのでしょうか。わたしが思うに、きわめて疑問だと言わざるを得ない。

閑話休題。話は江戸時代まで遡ります。キリシタンが迫害されていた時代に火刑執行中に見物人に説教しながら死んでいったバテレンがいます。当時は外で公開処刑が普通でしたからね。物の本によると焼身自殺と餓死は最も苦しい死に方のひとつなのだそうです。このことからも火あぶり、というのは非常に凄惨(せいさん)な処刑法なのだと考えることができます。

しかしながら阿鼻叫喚(あびきょうかん)の苦しいはずの処刑執行中に自らを顧みず見物人に説教したキリスト者がいたのです。これは作り話ではない。実際にあった話であります。繰り返し申しますが、フィクションでは決してありません。

思うに、このバテレンは十字架にかけられながらも同じ磔刑(たっけい)に処せられたキリストを想起しながら形容できないほどの凄まじい苦痛に耐えたのでしょう。全身火だるまになり火焔地獄さながらの火刑に屈することなく天の御国へ凱旋していったのです。いわゆる殉教です。周りにいる野次馬に諄々と悔い改めを説きながら。

こういう立派な先輩キリスト者の十分の一、いや百分の一を生きるのは今の時代とても困難です。なにしろアイドルグループのコンサートの抽選に当たるような祈りをしている自称キリスト者もいるくらいですから。自分の力では決してできない。到底できませぬ。天来の信仰を頂戴しないことには絶対に無理であります。

わたしもこれまで見てきたようなキリストに殉じた先輩キリスト者の立派な生き方、死に方に倣いたいと思っています。ゆえに、このブログに少しでも不純なもの薄汚いものがあれば遠慮なくご指摘ください。江戸時代に迫害されたキリスト者に見せても顰蹙(ひんしゅく)を買わないくらいのブログをつくりたいと願っています。

死をガン見せよ!

わたしは問いたい。あなたは聖書を一度でもいいからお読みになったことはありますか、と。聖書は不滅の大古典であります。なんなら洋の東西を問わず、とか誰もが認める、とかいう表現を前に冠してもいい。

しかしながら、インテリを自負している有識者のなかにすら聖書をまともに読んでいない方々は多くいます。とりわけ日本には、という少々意地悪な但し書きを付け加えたいくらいです。これは日本のインテリの知的な怠慢であると思います。知的にちっとも誠実な態度とは言えない。

たしかに聖書は決して簡単に読める書物ではありません。そうなんです。浅薄な書物ではないのです。そしてボリュームがある書物なのであります。あの分厚い旧約聖書を一瞥(いちべつ)しただけで読む気が失せるかもしれません。誰であれ、あの分厚さを見るだけで容易に気づくはずです。ふつうの本ではないことに。けれども、そういうことも読んでみなければ心から合点することはできません。われわれ日本人は識者も含めて、もう少し聖書を深く学ぶ必要があるのではないか。旧約聖書も新約聖書も。

どうせ、われわれ凡人は一度、読んでもよくわかりません。けれども、わからなければ、あの太宰治のように十回でも百回でもそれなりの歳月をかけて納得のいくまで繰り返し読めばいい。読書百遍というではありませんか。

だけれども聖書を読む人は少ないです。もう少し正確に申しますと、聖書を真剣に読む人がほとんどいない。なぜでしょう。思うに、わたしたちは生きることについては一生懸命に考えますが死については一向に一生懸命に考えようとしない。これが、ほとんどの人が聖書を読まない理由であります。左様に述べたことが今回の記事でお話ししたい内容の眼目であります。

もちろん、そうは言うものの生きることを軽視していいはずはありません。一生懸命に生きることは責められるべきことではない。むしろ真摯に生きている人は認められて然るべきだと思う。しかしながら、それもおのずから限度というものがあります。わたしは左様に申すことにためらいを感じません。われわれは死についてあまりにも考えることをしません。死ぬることは生きることと同じかそれ以上に重要なことではないでしょうか。

皆、死について考えることを先延ばしにしています。否、わたしに言わせれば吾人は死について考えることを放棄しているかに見えます。大部分の方が生きることばかりに目が向かってしまっている。そうではありませんか。これをいわゆる思考停止と表現しても決して辛口な評価とは言えませんでしょう。

そういう次第で聖書に関心を持たない。興味も向けない。一顧だにしません。それでいて流行(はやり)の本をおおいに尊重して読んだ後に人生について何か悟ったと思い込んでいるのが現代の人です。だから最近の人は、たいてい非常に浅薄で幼稚な人生観しか持っていません。

なぜ吾人は聖書を読まないのでしょうか。聖書をキリスト教の教典と考えて自分には関係がないと思ってしまうのです。ゆえに無視するのであります。それが宗教に対する自分の偏見だということに気づけない。皆、してやられています。死について考えることをしないで死と対峙したとき一体どうするつもりですか。

日本の風土では死を直視せずに、むしろ死を忌み嫌う風潮があります。われわれ日本人は死から目をそらして生きている、というのが現状ではありますまいか。死から目をそらさず、むしろ凝視してください。そうです、タイトルどおり吾人は死を「ガン見」するべきなのであります。

読者諸賢よ、死の準備はできていますか。吾人のうち誰か明日、交通事故に遭わないとも限らない。そうでしょう。誰も否定はできないはずです。余命宣告でもされていない限り、いつ死ぬか誰も正確には知らないのです。

生と死は地続きです。これは、あの有名なマンガ、『カイジ』の作者である福本伸行の某作品に記されていたモノローグです。子供が読むマンガにさえそう書いてあるのです。

人生という旅の最終目的地は何処ですか。この質問の答えをご自分で、よく考えられるといいと思います。考える価値がある人生のおおきな疑問だとわたしは思いますね。なんなら有史以来という言葉を付け加えてもいい。いにしえの賢人、たとえばソクラテスや孔子もあんなに考えあぐねている人生の根本問題であります。

そういう人たちが書き残したものがあります。それが古典です。大昔に起こったことは現代も変わらずに起こっています。日の下に新しいことは何ひとつない、という言い方もできるのです。そういうことに気付いている人が古典を読むのです。古典を読む価値はそこにあるのです。読者諸賢よ、古典を読みましょう。そして、どうせ古典を読むなら不滅の大古典である聖書を読みましょう。読んで得るところ大ですよ。

ここまで記してきたにもかかわらず以上の記事の内容を宗教的だから考えることをしない、というあなた。聖書を読んで死について考えることをしない、というあなた。では実際に死に直面したとき何があなたを助けてくれるのですか。金か、知識か、家族か、イデオロギーか、友人か、仕事か、道徳か。もう、あなたは答えられないではないですか。
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