敬愛する父さんへ

以下の文章は今年の父の日に日頃お世話になっている父に宛てて書いた私信です。パソコンのソフトで清書しました。私信ですから本来おおやけにすべきではない、といったんは考えたのですが原則あるところに例外が僅かなりともあってもいいのではないかと考えなおし、当ブログに記事として残すことに決めました。左様に考えるようになったのは今年、パソコンのハードディスクがクラッシュしてデータがすべてぱあになった苦い経験があるからです。

ハードディスクが駄目になるとバックアップを取っていない限り、データを回復する術(すべ)がなくなります。今後は、そうならないように細心の注意を払うつもりですが、それでも万が一ということがあります。万が一を考えてデータとして残してある父へのお礼状をブログに記事のかたちとして残すことに意味があるのではないかと考えるに至りました。もしかしたら読者諸賢にとって今回の記事は詰まらない記事になるかもしれませんが、ご容赦願います。それでは以下に父に出したお礼状を記します。
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敬愛する父さんへ

初夏の候、父さんにおかれましては、いかがお過ごしでしょうか。天気予報では梅雨入りが宣言されたにもかかわらず今週は爽やかに晴れた日がつづいて過ごしやすかったですね。外に出てバイクで走っていても清々しく爽快でした。父さんの体調の方はいかがですか。調子はよろしいでしょうか。希望されていた納屋橋饅頭はお手許に届きましたか。

現在わたしはⅮ・M・ロイドジョンズの『旧約聖書から福音を語る』(いのちのことば社刊)を読んでいます。読んでいて教えられることが多くあります。こういう説教には、なかなかお目にかかれません。こういう本こそ読む価値のある本だと言えます。ロイドジョンズの説教は本として刊行されて久しいですが今でもヤフオクなどで閲覧していると高値で取り引きされています。それだけの需要があるわけです。

わたしは以上の状態を憂慮します。そして、とても嘆かわしいことだと考えます。というのも裏を返せば、ロイドジョンズのような立派な説教が稀であるということを証明していることに他ならないからです。わたしが思うに講壇から説教者本人の勝手な感想を述べてみたり、適当な思いつきを話してみたり、神の国の大使という自覚に欠ける牧師が少なくありません。恥を知るがいいのです。

来るべき永遠に生きる世界のことに思いを致せば、説教もそうですが、そもそも牧会をすることに畏れを持たなければいけない、と考えますが父さんのお考えはいかがでしょうか。名古屋にある某教会では洗礼式のときに、これから受洗する子供がふざけた態度で誓約していたにもかかわらず司式している牧師は叱ることをせずに洗礼式を終えました。一部始終を見ていたわたしはすんでのところで大きな声を上げそうになりました。

この地域では、まともな教会がひとつもない、とわたしが主張したら相当な辛口の評価になるのでしょうか。もしかすると神の僕を正当に評価せずに不平不満ばかりを言っていたうなじのこわい荒野のイスラエルの民のように思われるかも知れませんね。しかしながら、そうではない、と強く否定したいのです。

否定する証拠を挙げるのは、そんなに難しくありません。わたしは父さんの牧会を振り返って批判がましいことを申したいとは露ほども思わない。こういう事実が不従順のイスラエルの民とは違うところだ、と主張したいのです。父さんが自分の身内だからではありません。わたしは自分の身内であればあるほど、親しくなればなるほど遠慮なく意見するタイプの男です。おそらくこのことについて父さんであれば躊躇うことなく首肯してくれるだろうと思います。

なによりもⅮ・M・ロイドジョンズの本を飽くことなく昔から今にかけて読んでいることが、わたしの一連の主張が的を射ていることの有力な根拠になるのではないでしょうか。ロイドジョンズの本を読んでいるとキリスト者としていかに生きるべきかが分かってくるのですね。こんなに嬉しいことはないではありませんか。人生とは何かとか、人としていかに生きるべきか、の答えが明瞭に記されている本を読んで感心しないというのはおかしなことであります。

以上のことは、いにしえの賢人ですら考えあぐねていた人生の根本問題であります。例えば、ソクラテスはソクラテスで孔子は孔子であんなにも深く考えているのに真理には至りませんでした。イエス・キリストをとおしてしか神に至る道はないゆえんです。キリスト以外の道から真理に至ろうと努めても無駄な努力であります。

わたしはクリスチャン・ホームで育まれて幸せです。左様に申し述べるのにいささかも躊躇いを感じません。おそらく、わたしは死ぬまで貧乏なままでしょう。結婚ももはや望むべくもない。けれども、それだけにこの世の生の次に展開する永遠の世界におおいに期待するものであります。自分の父が牧師であることに神のおおいなる恵みを思うのです。父さんに心より感謝を申し上げたいです。本当にありがとうございます。季節は梅雨に向かい、だんだん暑くなってまいります。母さん共々ご健康にお気をつけてくださいね。それでは、またお逢いする日までどうかお元気で。
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先輩たちの殉教を想え!

かつて時事通信社から出されている『日本キリシタン殉教史』という分厚い本をネット・オークションで安く落札して途中まで読み進めたことがあります。残念ながら今に至るまで読了できていません。わたしの場合、読まなくてはいけない本があり過ぎます。

わたしは別段、読書が好きなわけではありません。わたしの場合、本を読む理由は、ほとんどが必要に迫られて、です。のっけから少々、脱線しましたが今回の記事では、いわゆる「キリシタンの殉教」について述べたいのであります。

件(くだん)の本を読みますと、わたしらの先輩であるキリシタンの純粋さ、真摯さというものに襟が正される思いがしました。それに比べて現代に生きるわれわれ後輩キリスト者の軽薄さ、偽りの陽気さ、意味のない明るさは一体どうしたことでしょう。

かつてクリスチャンだけの婚活パーティーに足を運びました。そのときに本当に情けない経験をしました。読者諸賢は嵐という男性アイドルグループをたぶんご存知でしょう。彼らは有名ですからね。嵐は著しい人気があるのでコンサート会場に入るには抽選になってしまうのだそうです。

その抽選に当たるように神に祈った独身のご婦人がいました。言うまでもなく彼女はキリスト者です。クリスチャン限定の婚活パーティーですからキリスト者というのが出席するときの前提条件なわけです。

わたしは、そのご婦人を心の底から軽蔑しました。こういうのを涜神(とくしん)というのでしょうね。話しぶりや話しているときの表情から判断して彼女は嘘は言っていないようでした。わたしが思うに嘘の方が、まだましだったのかも知れません。

彼女にとって文字どおり嵐がアイドル(もともとは偶像という意味)になっているのです。なお悪いことに本人は屈託なく話し、笑いのネタのようにこの話題を持ち出していたのであります。つまり自分の軽薄さに全く気づいていないのであります。

わたしは、その場で聞いていましたが、聞いていて、とても情けなくなりましたし、なんだか無性に腹が立ちました。果たして彼女は本当のキリスト者と言えるのでしょうか。わたしが思うに、きわめて疑問だと言わざるを得ない。

閑話休題。話は江戸時代まで遡ります。キリシタンが迫害されていた時代に火刑執行中に見物人に説教しながら死んでいったバテレンがいます。当時は外で公開処刑が普通でしたからね。物の本によると焼身自殺と餓死は最も苦しい死に方のひとつなのだそうです。このことからも火あぶり、というのは非常に凄惨(せいさん)な処刑法なのだと考えることができます。

しかしながら阿鼻叫喚(あびきょうかん)の苦しいはずの処刑執行中に自らを顧みず見物人に説教したキリスト者がいたのです。これは作り話ではない。実際にあった話であります。繰り返し申しますが、フィクションでは決してありません。

思うに、このバテレンは十字架にかけられながらも同じ磔刑(たっけい)に処せられたキリストを想起しながら形容できないほどの凄まじい苦痛に耐えたのでしょう。全身火だるまになり火焔地獄さながらの火刑に屈することなく天の御国へ凱旋していったのです。いわゆる殉教です。周りにいる野次馬に諄々と悔い改めを説きながら。

こういう立派な先輩キリスト者の十分の一、いや百分の一を生きるのは今の時代とても困難です。なにしろアイドルグループのコンサートの抽選に当たるような祈りをしている自称キリスト者もいるくらいですから。自分の力では決してできない。到底できませぬ。天来の信仰を頂戴しないことには絶対に無理であります。

わたしもこれまで見てきたようなキリストに殉じた先輩キリスト者の立派な生き方、死に方に倣いたいと思っています。ゆえに、このブログに少しでも不純なもの薄汚いものがあれば遠慮なくご指摘ください。江戸時代に迫害されたキリスト者に見せても顰蹙(ひんしゅく)を買わないくらいのブログをつくりたいと願っています。

死をガン見せよ!

わたしは問いたい。あなたは聖書を一度でもいいからお読みになったことはありますか、と。聖書は不滅の大古典であります。なんなら洋の東西を問わず、とか誰もが認める、とかいう表現を前に冠してもいい。

しかしながら、インテリを自負している有識者のなかにすら聖書をまともに読んでいない方々は多くいます。とりわけ日本には、という少々意地悪な但し書きを付け加えたいくらいです。これは日本のインテリの知的な怠慢であると思います。知的にちっとも誠実な態度とは言えない。

たしかに聖書は決して簡単に読める書物ではありません。そうなんです。浅薄な書物ではないのです。そしてボリュームがある書物なのであります。あの分厚い旧約聖書を一瞥(いちべつ)しただけで読む気が失せるかもしれません。誰であれ、あの分厚さを見るだけで容易に気づくはずです。ふつうの本ではないことに。けれども、そういうことも読んでみなければ心から合点することはできません。われわれ日本人は識者も含めて、もう少し聖書を深く学ぶ必要があるのではないか。旧約聖書も新約聖書も。

どうせ、われわれ凡人は一度、読んでもよくわかりません。けれども、わからなければ、あの太宰治のように十回でも百回でもそれなりの歳月をかけて納得のいくまで繰り返し読めばいい。読書百遍というではありませんか。

だけれども聖書を読む人は少ないです。もう少し正確に申しますと、聖書を真剣に読む人がほとんどいない。なぜでしょう。思うに、わたしたちは生きることについては一生懸命に考えますが死については一向に一生懸命に考えようとしない。これが、ほとんどの人が聖書を読まない理由であります。左様に述べたことが今回の記事でお話ししたい内容の眼目であります。

もちろん、そうは言うものの生きることを軽視していいはずはありません。一生懸命に生きることは責められるべきことではない。むしろ真摯に生きている人は認められて然るべきだと思う。しかしながら、それもおのずから限度というものがあります。わたしは左様に申すことにためらいを感じません。われわれは死についてあまりにも考えることをしません。死ぬることは生きることと同じかそれ以上に重要なことではないでしょうか。

皆、死について考えることを先延ばしにしています。否、わたしに言わせれば吾人は死について考えることを放棄しているかに見えます。大部分の方が生きることばかりに目が向かってしまっている。そうではありませんか。これをいわゆる思考停止と表現しても決して辛口な評価とは言えませんでしょう。

そういう次第で聖書に関心を持たない。興味も向けない。一顧だにしません。それでいて流行(はやり)の本をおおいに尊重して読んだ後に人生について何か悟ったと思い込んでいるのが現代の人です。だから最近の人は、たいてい非常に浅薄で幼稚な人生観しか持っていません。

なぜ吾人は聖書を読まないのでしょうか。聖書をキリスト教の教典と考えて自分には関係がないと思ってしまうのです。ゆえに無視するのであります。それが宗教に対する自分の偏見だということに気づけない。皆、してやられています。死について考えることをしないで死と対峙したとき一体どうするつもりですか。

日本の風土では死を直視せずに、むしろ死を忌み嫌う風潮があります。われわれ日本人は死から目をそらして生きている、というのが現状ではありますまいか。死から目をそらさず、むしろ凝視してください。そうです、タイトルどおり吾人は死を「ガン見」するべきなのであります。

読者諸賢よ、死の準備はできていますか。吾人のうち誰か明日、交通事故に遭わないとも限らない。そうでしょう。誰も否定はできないはずです。余命宣告でもされていない限り、いつ死ぬか誰も正確には知らないのです。

生と死は地続きです。これは、あの有名なマンガ、『カイジ』の作者である福本伸行の某作品に記されていたモノローグです。子供が読むマンガにさえそう書いてあるのです。

人生という旅の最終目的地は何処ですか。この質問の答えをご自分で、よく考えられるといいと思います。考える価値がある人生のおおきな疑問だとわたしは思いますね。なんなら有史以来という言葉を付け加えてもいい。いにしえの賢人、たとえばソクラテスや孔子もあんなに考えあぐねている人生の根本問題であります。

そういう人たちが書き残したものがあります。それが古典です。大昔に起こったことは現代も変わらずに起こっています。日の下に新しいことは何ひとつない、という言い方もできるのです。そういうことに気付いている人が古典を読むのです。古典を読む価値はそこにあるのです。読者諸賢よ、古典を読みましょう。そして、どうせ古典を読むなら不滅の大古典である聖書を読みましょう。読んで得るところ大ですよ。

ここまで記してきたにもかかわらず以上の記事の内容を宗教的だから考えることをしない、というあなた。聖書を読んで死について考えることをしない、というあなた。では実際に死に直面したとき何があなたを助けてくれるのですか。金か、知識か、家族か、イデオロギーか、友人か、仕事か、道徳か。もう、あなたは答えられないではないですか。

反「アンチエイジング」宣言

いつの頃からか、わたしも髪に白いものが混じるようになりました。年を取りました。そのうちに周囲の友人知人からいつまでもお若いですね、なんて言葉をかけられないとも限らない。もう、そういう年齢になりました。人生の折り返し地点を過ぎて久しいです。

最近、巷間には、いわゆる“アンチエイジング”という思想的潮流があります。「いつまでも若々しいですね」という言葉は今や褒め言葉になっています。けれども翻って考えると、こんなに馬鹿馬鹿しいことはない。それでは齢をとった甲斐がないではありませんか。

年齢にふさわしい信仰、思想、哲学等が、そのひとの内になければ何のために齢を重ねたのか、ということになるのではありますまいか。今までどういう生き方をしてきたのか、という後悔をすることにもなりかねない。

吾人は中年なら中年らしい、青年には持つことができないような立派な人生観を持ったうえで一日一日を過ごすべきであります。思うに、なんでもそうですが日々是精進であります。そういう真剣な気持ちで生きてゆきたい、とわたしは常々考えています。ところが、キリスト者も含めて現代に生きる人々の軽薄さ、偽りの陽気さ、明るさ、その騒々しさは一体どうしたことでしょう。「汝等しずまりて我の神たるをしれ」(聖書)!

人生の先輩を狙った俺おれ詐欺という犯罪がありますが世の人々は皆、生き方において、いわゆる「俺おれ主義」なのではないでしょうか。これは老若男女を問いません。昨今では権利意識が高まり、自分の権利ばかり声高に主張している輩が確実に増えてきていますね。

例えば、横断歩道を渡るときにクルマが待っているのに一瞥もせずに、ゆうゆうと歩いて横断している歩行者をよく見かけます。美しくないですね。小走りに横断している子供たちの方に覚えず好感を抱くのはひとりわたしだけではないのではありますまいか。わたしは、そういう人たちの生き方を「俺おれ主義」と名付けています。

わたしもいい齢になりました。アンチエイジングではなく、年齢にふさわしく自分の言動をシフトしてゆくことが肝要なのだと思います。自分自身のこれからの生き方が「俺おれ主義」的な世の人々とは対照的で世俗の人々の生き方に対する強烈なアンチテーゼになっているといいなあ、と考えているところです。

自分の生き方をとおして周りの人々に警鐘を鳴らし続けてゆきければ嬉しいですね。自分の年齢にふさわしい、そんな年の重ね方こそ素敵だと思いませんか。そういうしだいで、わたしは云うなればアンチ“アンチエイジング”派です。

私の指導理理念

新年あけましておめでとうございます。旧年中はたいへんお世話になりました。本年も当ブログの記事のご愛読を何卒よろしくお願いいたします。

なお、本年は暫定的に現代仮名遣いを用いて執筆することにしました。当分、歴史的仮名遣いで記すことはお休みにいたします。ご理解いただけると幸いです。

昨年はブログの記事更新が、なかなかできませんでした。記事をあたらしく書き下ろす、というのは、なかなか困難で難儀なことです。けれども、言い訳はやめましょう。現在、週に一回、家庭教師の授業に行っています。教えている生徒さんは中学二年生の女の子です。

どうしたらよい授業ができるだろうか、と最近、本業とは別に副業について考えることが多くなってきました。読者諸賢にとっては、つまらない話になるかも知れませんが家庭教師の際の指導理念という以下の記事にしばらくの間お付き合いいただければと思います。

わたしが勉強を教えるときの指導理念を簡単に要約すると生徒さんに「勉強の愉しさを経験してもらう」ということに尽きます。勉強が愉しいと思えるようになれば成績は早晩、必ず向上します。

そのために、わたしは毎回の授業をまず教師である自分が愉しむように心がけています。思うに先生が愉しんで授業を行えば、それは必ず生徒たちに伝わります。

さはさりながら勉強は愉しいことばかりではない、とも急いで言い足さなければなりません。勉強もスポーツと同じで、ある意味、厳しい世界です。上達するためには何回も何回も繰り返し練習する必要があります。

両者とも自分の技量が上がれば上がるほど愉しくなる点で共通していますが、技量が上がるようになるまでは、やはり苦しい訓練の道を避けてとおることはできないのです。例外はありません。いにしえの賢者の言葉に「学問に王道はない」という言葉がありますが現代でもこの格言はやはり真理を表しています。

栄冠をつかむためには徹底した練習をしなければなりません。マラソンを例にとりましょう。マラソンランナーは自分をとことん追い込むと走っている最中にランナーズハイと呼ばれる何とも言えない恍惚感(こうこつかん)にとらわれるといいます。勉強もそこまで徹底して練習してほしい、とわたしは考えています。

勉強の愉しさが実感できたらしめたものです。成績向上の山の頂上近くまで登ってきていると思っても間違いはないでしょう。勉強が愉しいと思えれば教師が宿題を出すまでもなく自分でどんどん勉強するようにもなるでしょうね。そうなれば必然的に成績は上向きます。

江戸時代の儒者である伊藤仁斎という人を知っていますか。彼の講義は生徒たちが御馳走を食べて酒を飲みながら聴いたといいます。今日みたいにしかつめらしい学校とは違うのです。現代のような娯楽のない当時、彼の学問はとても愉しく有意義だということが生徒たちにはっきり伝わっていたのです。

したがって、仁斎の生徒はあらゆる階級にわたっていました。農民、町人、武士、公家さえもいたそうです。わたしの目標とする家庭教師は仁斎です。彼のように生徒さんに勉強の愉しさを伝えられるような教師でありたいと考えています。

勉強は、愉しいです。けれども、たしかに苦しくつらい場合もあります。愉しい愉しいだけの子供の遊びとは違うのです。障碍(しょうがい)があるからこそ、それを克服した時の気分は格別なのです。吾人は楽で愉しいだけの世界には耐えられないのです。人間の精神はそういうふうにできているのですね。

われわれ教師は生徒さんに思い違いをさせてはいけません。学校では魅力ある学問の目次を習っているにすぎないのです。思うに、すべて学生は学問の入り口にいるだけなのです。ゆめゆめ慢心することなく目次の先に展開するはずである本物の学問を究めるための準備を学生時代に是非してほしい。わたしはそう願って、いつも家庭教師の授業に臨んでいます

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プロフィール

ヨシ樹

Author:ヨシ樹
昭和に生まれ、平成を生きる日本男児。
東京の大学を卒業して故郷の愛知県に戻る。
肉体労働や家庭教師、塾講師を経て現在、名古屋市で暮らす。
家庭教師は週末に副業として続けている。
いわゆる「勝ち組」「負け組」という二元論的なステレオタイプを嫌う。
趣味はブログ執筆、読書、音楽鑑賞、六弦ベース演奏、バイク・ツーリング等々。
ちなみに大型自動二輪免許保有。かつてハーレーを所有。
夢はオートバイでの海外ツーリング。具体的にはユーラシア大陸をBMWで走破することなどを考えている。
日本経済の非道いデフレを憂いつつも名古屋市のリサイクル・ショップや古本屋によく出没する。
実はプロテスタント教会の牧師の息子であり、幼い頃から聖書と教会に親しむ。
読者からのコメントが大好物。

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