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ヨシ樹

Author:ヨシ樹
昭和に生まれ、平成を生きる日本男児。
東京の大学を卒業して故郷の愛知県に戻る。
肉体労働や家庭教師、塾講師を経て現在、名古屋市で暮らす。
家庭教師は週末に副業として続けている。
いわゆる「勝ち組」「負け組」という二元論的なステレオタイプを嫌う。
趣味はブログ執筆、読書、音楽鑑賞、六弦ベース演奏、バイク・ツーリング等々。
ちなみに大型自動二輪免許保有。かつてハーレーを所有。
夢はオートバイでの海外ツーリング。具体的にはユーラシア大陸をBMWで走破することなどを考えている。
日本経済の非道いデフレを憂いつつも名古屋市のリサイクル・ショップや古本屋によく出没する。
実はプロテスタント教会の牧師の息子であり、幼い頃から聖書と教会に親しむ。
読者からのコメントが大好物。

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ヨシ樹の雑記帖

日々の出来事を中心に自分の思いを簡潔かつ正直に綴ります。兄弟ブログ“「論」ブログヨシ樹”もよろしく!

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俺おれ主義

人生の先輩たちが営々と貯めてきた財産を狙った「俺おれ詐欺」という犯罪がありますね。被害に遭われた年輩の方々には全く同情しますが、このネーミング、なんだかユーモラスです。それゆえに閃(ひらめ)くものがありました。

思うに吾人は生き方において、いわゆる「俺おれ主義」になる危険と常に隣り合わせなのではないか、と。つまり吾人は、ともすると利己的で自己を中心とした生き方に傾きがちになるのではあるまいか、と考えたわけです。

これは、もちろん老若男女を問いません。昨今では権利意識が高まり、自分の権利ばかり声高に主張している輩(やから)が確実に増えてきています。例えば、横断歩道を渡るときにクルマが待っているのに一瞥(いちべつ)も与えずに、ゆうゆうと歩いて横断している歩行者をよく見かけます。

美しくないですね。小走りに横断している年少の子供たちの方に覚えず好感を抱くのはひとりわたしだけではないのではありますまいか。わたしは、そういう人たちの生き方を「俺おれ主義」と名付けたいと思います。

わたしはキリスト者として自分のうちにあるいわゆる「俺おれ主義」と対決したいと考えています。自分自身の生き方をとおして「俺おれ主義」とは正反対の生涯があるのだ、と実証してゆきたいですね。

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辛かっただろうね

なんだか眠れずに深夜、パソコンを立ち上げてみた。《「学校しんどい、無理」中2女子がメモ残し自殺》という見出しをインターネット上の記事で見かけた。わたしは暗い夜の部屋で煌々(こうこう)と光っているパソコンの画面を見ていて切なくなった。辛かっただろうね。

生と死の間にある暗く深い淵を乗り越えようとした時、葛藤がなかったはずはない。怖くなかったはずはない。なんといっても中2の女の子なのだ。まだいわゆる「ガール」である。なぜ、この若さで死ななければならなかったのだろうか。

ナイーブで優しい子供ほど切羽詰まって自らの命を絶つ。悲しいよ。いじめている子に報復などすることもせず、黙って、この世に見切りをつけて他界する。本当に残念だ。思うに、こういう子供に限ってとってもよい子であるケースが多い。

わたしは現在、副業で家庭教師として中学二年生の男の子の国語を見ている。この間、授業に行ったとき、この子はトイレに閉じこもって出てこようとしなかった。わたしが来ても不機嫌を隠そうともしなかった。わたしは左様のことは思春期によくあることを経験上、知っていたので別段、腹は立たなかった。

トイレの扉越しに色々と話した。「明日も仕事はあるけれど今日は、とことん付き合うよ」と言ったら出てきてくれた。こちらの覚悟が伝わったのだと考えている。わたしはこの子がトイレから出てくるまで本当に何時間でも待つつもりだった。深夜になろうが、たとえ日付が変わろうが出てくるまで説得をやめて帰るつもりは寸毫もなかったのである。

わたしは中学生が好きだ。小学生でも高校生でもない中学生を好もしく思っている。君が今どんな状況でもこの世に居続けてほしい。絶対に死なないでほしいな。大人になれば学校なんか行かなくて済むし、会社員にならなければ会社に行くこともない。自由だ!いくらでも工夫の仕方はある。

それまでの間、耐えてほしい。決して絶望しないでほしい。君がこの世からいなくなったら、わたしはとてもさみしい。まして、ご両親の胸中での思いは、いかばかりだろう。ぶざまでも苦しくても彼岸(ひがん)に逃避しないでほしい。頼むよ。お願いするよ。このとおりだ。

思想と年齢


いつの頃からか、わたしの髪にも白いものが混じるようになりました。若い頃には必要なかった白髪染めなぞ煩わしい限りです。しかしながら、フォーマルな会合に臨むときに胡麻塩頭(ごましおあたま)というのでは相当にみっともないかな、という心配から自由ではない、というしだいで白いものが混じった頭を梳(くしけず)る時、鏡を見て苦笑するのみであります。

人生の折り返し地点を過ぎて久しいです。思うに「光陰矢の如し」という古くからある言葉は真実ですね。よく出来た言葉だと思います。段々そういうふうに考えるようになりました。左様なことを考えるようになった、ということは取りも直さず、わたしが年を取ったということと少しも違いません。

最近、巷間には、いわゆるアンチエイジングという思想的潮流がありますね。年齢を重ねても活き活きと暮らしたい、ということなのでしょう。いわゆる加齢に負けることなく、いつまでも若々しく生き続けたいという強い願いを抱いて、フィットネスジムなどに通うことがひとつのトレンドにまでなっています。しごく結構なことではないか、というのが現代っ子の意見なのではありますまいか。そういうしだいで今回は思想と年齢の関係をテーマにして記事を書いてゆきたいと思います。

「いつまでも若々しいですね」という言葉は今や年輩者の歓心を買う最も有効なお世辞のひとつになっています。年輩の綺麗な女性を指して「美魔女」などという新しい言葉も生まれています。けれども、翻って考えると、こんなに馬鹿馬鹿しいことはない。それでは齢(とし)をとった甲斐がないではありませんか。年齢にふさわしい信仰、思想、哲学等が、そのひとの内に醸成されていなければ何のために齢(とし)を重ねたのか、ということになるのではありますまいか。思うに今までどういう生き方をしてきたのか、という後悔をすることにもなりかねません。

アンチエイジングという現代の思想的潮流の背後には合理主義の思想があると思います。二に二を足せば子供にとっても四ですし、大人にとっても四です。答えに変わりはありません。大人や子供を問わず誰にも納得のゆく答えが出ます。そう、合理主義思想に年齢は関係ないのであります。もっと申しますと合理主義思想は年齢というものを軽蔑するのです。合理主義思想は先輩、後輩の区別など何とも思っていないのであります。

しかしながら、思想というものは、もともと年齢と関係があります。年を取らなければ判らないということが人生には無数に存在します。それは吾人のこれまでの経験に照らしても納得できます。たとえば『論語』には「四十にして惑わず」と記されています。二十代や三十代では、まだまだ惑わずとは言えないのであります。左様なことは常識で考えても十分に理解することができますね。

風貌(ふうぼう)だってそうです。四十代の顔とか姿というものに何とも言えない深い人生の実相が刻まれているのであるならば吾人はそれを忌避(きひ)すべきではなく、むしろ歓迎すべきではないでしょうか。「いつまでもお若いですね」などと言われて、へらへらと、脂下がっていてはいけないのであります。お世辞を言っている相手は「お若いですね」と言いつつ心のなかでは「精神年齢的にはね」と但し書きを付けて、こっそり舌を出していないとも限りません。

吾人は赤ん坊として出生して老人になり遂には死を迎えます。我々は齢を取るにつれて、その抱いている思想が深まってゆかなければなりません。吾人は中年なら中年らしい、青年には持つことができないような立派な人生観を持ったうえで一日一日を過ごすべきであります。各人が、それぞれの年齢に達しなければ抱けない人生観を持つべきなのです。思うに、なんでもそうですが日々是精進であります。怠けていては見込みがない。

人生のどのステージでもそういう真剣な気持ちで生きてゆきたい、とわたしは常々考えています。いつまで経っても青年なみの考えで止まっていては駄目ですね。年配者にもかかわらず、いつまでも青年らしいですね、と褒められて悪い気がしない、というのでは実にいけませんね。中年の思想には中年にならなければ表現できないような味わいがあるべきです。それでこそ齢を重ねて来た甲斐がある、というものです。

わたしもいい齢になりました。巷(ちまた)で流行している浅薄なアンチエイジングという時代の潮流を唯々諾々(いいだくだく)と追認するのではなく、四十なら四十という年齢に丁度ぴったりな立派な思想を自分の内にぜひ宿らせていたいものですね。自分自身のこれからの生き方が聖書的でない人々とは対照的で、そういう世俗的な生き方を決してやめようとしない人々に対する強烈なアンチテーゼになっているといいなあ、とも考えています。ちなみに「世俗的」という言葉の定義は「宗教的ではない」です。

わたしがアンチエイジングという当世風の思想を歓迎できないいちばん肝腎なところを申しますと、それは、すなわち、死というものを真面目に考えようとしない不健全な姿勢にあります。老若を問わず、性別を問わず、貧富の別なく、能力の差にかかわらず、誰であれ吾人は必ず死に至ります。財産家だから死を免れるなどという馬鹿なことはありません。

死は公平に人を選ぶことなく皆に臨みます。それなのに、我々はなぜ死を避けるのでしょうか。なぜ死と真摯に取り組もうとしないのでしょうか。それは著しく不自然なことではありますまいか。そして、不健全といわれても反論できないのではないでしょうか。

こうして思想と年齢の問題を論じて来て、いわゆる死の問題に至りました。死の問題を避けて思想と年齢という論点を有効に考えることは不可能です。わたしは思想問題を扱うに際して年齢を論ずることは不可避であり、さらに死の問題を積極的に考える、という立場をとります。

なぜならば、死の問題は万人にとって切実で避けては通れない問題であり且つ死の解決はある、と信じているからにほかなりません。人は死んで無くなるのではありません。魂は不滅であります。古典中の古典である『聖書』が倦まず弛まず教えているとおり死の彼方(かなた)には永遠の世界が存在するのであります。

我々はいつまでもこの世に生きていられるわけではありません。吾人は、よく生きて七十、八十でしょう。百年も生きれば、いわゆる大往生(だいおうじょう)であります。わたしたちの生涯は、もう間もなく終わります。宇宙の営みからすれば我々の人生なぞ瞬(またた)く間の出来事にすぎません。ほんの一瞬です。吾人の寿命など、その本質において蜻蛉(かげろう)の寿命と選ぶところはありません。

我々の人生は明日、終わるかも知れない儚(はかな)いものであります。栄華を極めた豊臣秀吉も「難波のことも夢のまた夢」と言って死んでゆきました。自らの権勢に未練たらたらで世を去ったのです。したがって、歴史を知っている後世に生きている我々は秀吉の轍(てつ)を踏まないように死について十分に考えて備えておくということが、どうしても必要になります。

日本史に名を遺し、太閤とさえ言われた秀吉でさえしてやられているのです。秀吉のように現世に対して未練がましい態度で臨終を迎えないように吾人は死についてしっかり考え抜くことが大事であります。読者諸賢もこの記事をきっかけに自分の死についてゆっくりと考える時間をつくってください。

忙しい日常のなかで自分と向き合うひとときを捻出することは、とても大事なことだと、わたしは考えます。そう、捻出するのであります。価値のある時間をつくるために工夫をするべきであるのは殊更に述べる必要のないことです。皆、実行している何でもないことです。死について考えることは非常に価値のあることなのに全くおざなりにされているので考える時間をつくる工夫をするべきである、とわたしは提案しているのであります。

将来かならず経験するであろう死に備えて吾人はどんな準備をすればいいのでしょうか。すでに述べたように死の問題を避けるのではなく死について真面目に考えることから始めるべきです。死について考えるコツは死の彼方を見晴るかすことにあります。言い換えますと死後について思いを致す、ということです。それでは、死後について思いを致すためにはどうしたらよいのでしょうか。友人と議論したり、ただ空漠と自分で考えても高が知れています。

我が田に水を引く物言いになるかも知れませんが、お住まいの近くの教会に行くこともいいのではないでしょうか。教会に行く、というわたしの提案に心理的な抵抗を感じるのであれば、せめてご自分で『聖書』を読んでみるといいかも知れません。死について備えたい、と真剣に考える時に昔の人の叡智が結集している古典を読む、という必然性が生まれるのであります。読者諸賢は『聖書』という書物を一度でもいいから読んだことがありますか。

原罪とは何ですか。新生体験とは何ですか。使徒とは何ですか。聖霊とは何ですか。いわゆる精霊とは異なりますよ。知らないでしょう。獄死した哲学者たる三木清が著した『人生論ノート』の「個性について」という章の冒頭部分には「バールの僧侶」という言葉が当たり前のように出て来ます。では、「バールの僧侶」とは誰のことを指すのですか。ピンと来ないでしょう。『聖書』を知らないからです。これではいけません。世界の大古典を読まないというのは知的な怠慢である、とわたしは躊躇(ためら)うことなく指摘しておきたい。

さはさりながら、以上のように述べただけだと『聖書』を読んでいない読者諸賢に対して配慮に欠けることとなります。急いで指摘しておきたいのは『聖書』は難解で晦渋(かいじゅう)な書物ではない、ということです。左様に思い込んで、しり込みする必要はありません。世界中の老若男女が読んで来た書物であり、現在も読まれており、将来にわたっても読まれて行く書物です。『聖書』が難しい、という先入観もやはり『聖書』を知らないことに起因します。

死後について書かれている本を読む、というのは死後について考える際に最も賢い選択のひとつである、とわたし考えます。ただ、誤解のないように申し添えますが死後について記されている本であれば何でもいい、と主張しているわけではありません。例えば死後について間違ったことが書かれているのであれば、その本によって益を受けるよりは損害を受けてしまいます。

繰り返しになりますが読者諸賢には、ぜひ不滅の大古典である『聖書』を読んでいただきたい。『聖書』を読むという選択には間違いがない。これは、わたしの信仰ですが。とにもかくにも時代の風雪に耐えて世界中の人々に読み継がれて来た大古典たるバイブルを読むことをお勧めしたいのです。わたしがここでいう『聖書』とは『旧約聖書』と『新約聖書』のふたつを指します。さらに申しますと、いわゆる「新改訳」の『聖書』をお読みになることをお勧めします。なぜならば、「新改訳」は原典にすこぶる忠実な訳である、とされているからです。

読書の時間とは時空を超えた人間の知恵を獲得できる貴重なひとときなのです。古典を読みますと昔の人の体験が文字となって記されていますね。なぜ江戸時代に起こった事件を現代に生きる我々が知ることができるのですか。当時の事件の模様を書き残した人がいるからです。これは、すなわち時間を超えていると言えますね。空間も超えていますよ。わたしたちは外国の物語を日本に居ながらにして読むことができます。

読書の時間とは時空を超えた人間の知恵を獲得できる貴重なひとときなのである、というのは一般論として決して間違ってはいません。けれども、『聖書』に限って申しますと人間の知恵を越えた神の知恵を知ることができる、という点で他の本とは一線を画します。そこが『聖書』が他の書物とは決定的に違うゆえんです。それゆえ、長いこと読書に親しんできた筋金入りの読書人にも応じますし、読書をはじめて日が浅い初心者にも応じてくれます。『聖書』は、それほどに懐が深いのです。そして、底知れず奥が深いのであります。

思想と年齢の関係については、まだまだ述べたいことがありますが長くなりますので別に機会があれば改めて記述することにします。いつ書けるものかも分かりませんが乞うご期待。最後になりますが借り物の思想ではなく自分なりの死生観を早いうちから確立しておくことの重要さを自戒の念を込めて記したうえで擱筆(かくひつ)します。

望む物は何でも与えよう

王  :「余はそちが気に入った。望む物は何でも与えよう。望みを言え」

哲学者:「そこをどいてくれないか。陽あたりが悪くなる」


上記会話での哲学者とはディオゲネスを指します。ギリシャのアテネ郊外に実在した哲人です。樽の中に住んでいて、その樽を転がして好きな場所に移動していたようです。樽の他にこれという持ち物は何もなかったらしい。以下にご紹介するのは〈ディオゲネス入門〉というサイトからの引用です。

《彼は「美しい人」と呼ばれた。外貌ではなく「魂において美しい人」という意味である。彼はただ樽の中に住んでいただけで、何事かを為したわけではない。天気のよい日は樽から抜け出して、河原でひなったぼっこをしていたという》

以下はアレキサンダー大王と哲人ディオゲネスの逸話です。また〈ディオゲネス入門〉から引用します。

《ディオゲネスは樽の近くでひなたぼっこをしていた。軍勢を引き連れてやってきたアレキサンダーを見ても、寝そべったまま居ずまいをただそうともしない。以下、二人の会話を再現してみよう。

「私はアレキサンダーです。ギリシャはいま完全に私の手の中にあります。アテネの人々は私の姿を見ただけで震え上がります。あなたは私が怖くないのですか」

「君は善い人かね。それとも悪人かね」

「私は善人です。私は父からたくましく生きることを学びました。そして師アリストテレスから、善く生きることを学んだのです」

「私は善人を恐れない。君が善人だとしたら、君を恐れる理由はないだろう」

アレキサンダーは老哲学者の言葉に感心した。ディオゲネスは相変わらず寝そべったままだったが、それをもはや無礼とも感じなかった。

「あなたのような智者に会えたことを嬉しく思います。つきましてはお礼をさせてください。何をお望みでしょうか。私に出来ることなら、何でもさせていただきましょう」

「それではひとつ頼み事をしよう。わしの前に立たないでほしい。君はわしから大きな楽しみを奪っている。わしの望みは日差しと昼寝だ。日の光をわしに分けてくれないかね」》

なんという欲のなさ!ディオゲネスでなければ「一生涯、食うに困らない財産をください。住み家も樽なんて貧相な場所ではいけない、立派な邸宅を所望します。伴侶もいないので聡明で美しい女性と結婚させてください。それから、まだまだあります。えーと」とか言うのではないでしょうか。それを言下に「そこをどいてくれないか。陽あたりが悪くなる」ですものね。たいていの人が求めて止まない富に全く惑わされていないので、とても痛快です。

ところで読者諸賢は上に記した記事が以前に当ブログに掲載されていた記事であることを見破ることができたでしょうか。当ブログ当初にアップした記事なので気づけなかった読者もおられるのではありますまいか。ちなみに本記事のタイトルは改題されています。もともとは「哲学者と王」という題名でした。改題するにあたり加筆してあります。

たまには昔の記事を復活させてもいいのではないでしょうか。書き手としてアイデアが泉のように湧いて出ればいいですが、そうそういいアイデアが頻繫に浮かぶわけでもありません。ただし、昔の記事を再掲載するときは必ずその旨を記します。昔の記事のリバイバルという今回の手法について読者諸賢のご意見ご感想を是非うかがいたいです。

謹賀新年

読者諸賢へ


新年あけましておめでとうございます。

旧年中はご愛読、誠にありがとうございました。
本年もご愛読の程よろしくお願いいたします。コメントを頂戴できれば、なお幸いです。

現在、所有しているパソコンに不具合が出て文章をプリントアウトできない状態が続いています。
いつもワードで書いた文章をプリンターから出力してプリントを見て誤字脱字などを確認しています。

今のところ、それができないので記事の更新に支障が生じています。
本記事はブログの入力欄に直接、入力しています。直接の入力はなかなかしんどい作業ですね。

ところで、新しい年がはじまるにあたって思い切って当ブログのテンプレートをかえてみました。
いかがでしょうか。読者諸賢に気に入っていただければ幸いです。

読者諸賢にとって、2018年が素晴らしい一年になりますように。
これで簡単ではありますが新年の挨拶に代えさせていただきます。


管理人 ヨシ樹
プラグインの説明
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★テンプレート名で検索すると、作者のブログにより詳しい説明があるかも知れませんし、無いかも知れません。

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